ゲーム「The Beginner's Guide」の解説・考察
※ネタバレ配慮一切してません
※自分なりに考察したいだけです
他人様の解釈を否定する意図は一切ありません
まずはじめに。
私はまだ「The Stanley Parable」をプレイしていません。
なのでこれはあくまでも「The Beginner's Guide」単品の考察になります。
■この物語はノンフィクションだったのか?
結論から言ってフィクションだと思います。
理由は以下のとおり。
【理由1】:売り物だから
常識的に考えて、Steam内で販売されてるゲームが無許可・無断転用の寄せ集めというのはちょっと考え難い。
【理由2】:Daveyがキャラクター化されてるから
語り手であるDaveyは製作者であるDavey Wreden氏本人のはずですが、彼のナレーションにはDaveyの人格をプレイヤーに印象付けようとする制作者の"意図"を感じます。
つまりセリフってことですね。
顕著なのが「塔」終盤の以下のセリフの流れ。
この「あの…何か間違っているかい?」が、全てを物語ってますよね。
制作者がDaveyという人物をどのように印象付けたいのかが明確に解るセリフです。
つまり「Davey」とは”承認欲求に飢えるあまり友人を傷付け自らをも孤独に貶め、これからもそうやって生きていくしかない愚かで可哀想な男”という設定のキャラクターなのです。
【理由3】:「Codaは架空の人物」と明言されている
Davey Wreden氏本人がポッドキャストで明言していたそうです。
結構な決め手ですね。
とはいえ、わざわざ自分の名前を出してメタフィクションのゲームを作ったのには相応の理由が有るのでしょう。
なので要所要所、エッセンスとしてノンフィクションが組み込まれているとは思います。
というより、創作物である以上「完全なるフィクション」なんて存在しないんですよね。
みんな自分が生きて体験して感じたことを物語に投影してるんだから、それが人の手で創られたものである以上、どんな物語もどんな登場人物も実在する制作者を構成する一部であり、そういう意味ではノンフィクションなんです。
そこに言及したいからDavey Wreden氏は今回のような手法を採った気がするのですが、その辺はまた後ほど語ります。
ということで改めて結論。
このゲームはフィクションだと思います。
■Codaがメンタルを病んだきっかけ
さて、では一番 要の部分から触れていきます。
原因を探り易くする為に、まずは起きた出来事や制作したゲームを時系列順に並べてみましょう。
「※」付きの注釈はDavey主観で語られた情報です。
これを見るとCodaのメンタルが崩れ始めたのは9月よりも前の時点、つまり「家」の制作後だと解りますね。
「家」はDaveyいわくCodaお気に入りのゲーム。
Codaが初めて他人との対話を試みたゲームです。
でもその結果、彼はメンタルを病みスランプに陥った。
ここにDavey Wreden氏がこのゲームで最も伝えたかったことが隠れていると自分は思っています。
順を追って説明したいので、そこに関しては後ほど語ります。
とりあえず現時点では
Codaは他人と関わりを持とうとした結果メンタルを病みスランプに陥った
とだけ覚えておいてください。
■事の発端となった「家」とは?
そうなると気になるのが「家」の背景。
Codaはどういった心境の変化で他人とのコミュニケーションに挑戦するゲームを制作したのでしょうか。
それを考察するにはまず、「家」の直前に当たる「脱出」に目を向ける必要があります。
■「脱出」とは
「脱出」はなんらかの試行錯誤を形にしたもの、ということは一目瞭然ですよね。
納得のいく答えが見付けられないから、Codaは狂ったように刑務所を作り続けた。
そして満足のいく答えに辿り着けたから、彼は「脱出」の制作を完了させ「家」の制作に取り掛かった。
お察しの通り、Codaが試行錯誤していたのは他人との対話です。
「脱出」とは、Codaが「他人にどう心を開けばいいのか」を模索し苦悩したゲームなんです。
「家」で語られた「家と人の心は似てる」という彼の持論の通り、「家」「脱出」に出てくる家は「Codaの心」のメタファーなんです。
だから「脱出(没Ver.たち)」の家には出入口が無くて、「家」では入口のドアが最初から開いていたんです。
「家」はCodaが他人に心を開く、つまり心のメタファーである家に「他人を入れる」ことを実践するゲームです。
プレイヤーは自分自身ではなく、他人でなければなりません。
これまでのCodaのゲームとは違い、プレイヤーが自分以外の人間であることを明確に意識して作られています。
もちろん、この場合の「自分以外」とはDaveyになります。
だから彼は「家」が完成すると、喜び勇んでDaveyに電話したんです。
「作品を見に来てほしい!」と。
これまでのゲームに出て来た登場人物とは打って変わって人懐っこいですよね、この掃除人。
それに「自分の考えや気持ち」を恥ずかしそうに話してくれます。
ここで思い出して欲しいのが前作のラストです。
Codaは「脱出(完成型)」をこのように締めくくっています。
選択肢によって別のパターンの会話、終わり方も有りますが、いずれにせよ示唆されるものは同じです。
「自分の思っていることをただ正直に相手に伝えればいい」
それがCodaの見付けた「他人にどう心を開けばいいのか」の答えなんです。
一見すると、そんな狂ったように刑務所作りにのめり込むほどの内容か?って感じの苦悩と結論ですが、コミュ障陰キャにとって「他人と関わる」というのは本当に難しいことなんです。
特にCodaというキャラクターは「階段」「パズル」で示唆されている通り、自分の内面を隠したがる人間なんです。
この簡単そうな答えに辿り着くまでには沢山のプロセスと時間が必要だったのです。
ここまで読んでもその苦悩がピンと来ない友達100人の陽キャは旧エヴァンゲリオン観て出直して来てください!!!ちゃんと劇場版まで!!!
まぁエヴァの話はさておき、この時期のCodaの心境とその表れであるゲームを解り易くまとめるとこんな感じになります。
だから「家」ではCoda(掃除人)が自分の考えていることを照れ臭そうに話してくれるんですね。しかも「家=その人の心」ですよ。
「塔」では「君は僕のパーソナルスペースを侵害した」と批判的に書いていましたが、侵害される距離感まで招いたのはCoda自身なんですよ。それだけCodaにとってDaveyは大きな存在だったということですね。
私は、Daveyが初めての友達だったと解釈しています。
Codaというキャラクターは再三「孤独」「人から理解され難い性格」といった印象付けがされていたので、おそらくDavey以外に話を出来る相手が居なかったんでしょう。
Codaにとっての「他人」とは、Daveyと出会う以前は「自分以外の誰か」という漠然とした形をしていましたが、出会ってからはDaveyその人を指しているように感じます。
だから「家」は他人との対話を試みた作品というより、Daveyとの対話を試みた作品なんです。
つまりDaveyに自分の考えを伝えようとした作品なんです。
私はプレイ時、掃除人が「○○してくれ」よりも「○○したらどうだい」という言い回しを多くしてくることに違和感を覚えたのですが、これは「掃除の仕事」が「ゲームを制作すること」のメタファーだったからなんじゃないでしょうか?
ちなみに、「脱出(完成型)」の会話は、選択肢によってはこんな風にもなります。
「家」でCodaがDaveyに伝えたかった事って「君と一緒にゲームを作ってみたい」だったんじゃないでしょうか?
そしてこのゲームのタスクの特徴を思い出してください…。
掃除の仕事の無限ループ。
終わりが無いんです。CodaとDaveyはずっと、暖かな家の中で一緒にゲームを作り続けるんです。永遠に。
美しい物語ですよね。それで完結してるんです。
無限ループすることこそがこのゲームのミソだったんです。
でもDaveyはこの「家」というゲームに込められたメッセージや意図を全く理解していません。
それにDaveyとCodaのゲームに対する価値観はどうしようもなく違います。
だからDaveyはきっと、この無限ループに難色を示したはずです。
面と向かって批判したのかもしれません。
「ゲームはプレイ可能であるべきだ」って。
基本的に、自分の殻に閉じこもってる人間ってのは他人からの批判に弱いんですよ。
否定されるのが怖い。拒絶されるのが怖い。自分の考えを笑われるのが怖い。
だからCodaはずっと、誰にも傷付けられないで済む安全な刑務所の中に閉じこもってたんです。もちろん、そこから出たいという矛盾も抱えてましたが。
その矛盾はDaveyと出会ったことで更に大きくなります。「他人と関わりを持っていたい」「心を開いて話がしたい」これまでは漠然としていた願望がくっきりと輪郭を持つようになります。
でも殻の外に出るのは怖い、他人にどう心を開いたらいいか解らない、一緒にゲームを作ろうなんて言って断られたらどうしよう。そういう苦悩と葛藤が有ったから「脱出」の制作が狂気の沙汰になったのに、思い切って殻を破って外に出たらいきなり右ストレートでバチコーンですよ。泣いちゃう。
これがCodaがメンタルを病んだきっかけだと私は解釈しています。
■「家」のラストを作ったのは誰なのか
「家」のラストについては引っかかる点がいくつか有ります。
Daveyは「ゲームを終わらせる為に無限ループを止める処理を加えた」と言っていましたが、それなら掃除人が「これ楽しい?」と言って突然消える演出や、丘の上のドアが開いて街灯に辿り着くラストは、CodaとDaveyどちらが作ったものなんでしょうか。
そもそも、何故「家」を修正した事実だけが「塔」まで隠されていたんでしょう。今までは毎回その場で「スキップするよ」とか「○キーを押してくれたら○するよ」って教えてくれていたのに…。
結論から言います。
私は「家」のラストはDaveyが作ったと考えています。
皆さん「家」のラストの街灯に違和感を感じませんでしたか?
街灯は「下へ」で初登場して以降、「塔」以外のゲームすべてに出て来ています。
出て来た順に左上から並べていくとこんな感じです。
画像が暗くて見難いかもしれませんが、「家」の街灯だけ周りに何も無いのが解りますか?
「家」以外のゲームでは周囲に何かしら物や人が置かれていたり風景が広がっていたりするのですが、この「家」だけは何も無いんです。草の生えた地面が広がっているだけで他は何も無い。
街灯はCodaのゲームに共通して置かれていた「目的地」でした。
もっと解り易く言うなら「このゲームの終わりはここだよ」「こっちだよ」って教えてくれる目印ですね。
言い換えれば、それ以外には特に意味の無いシンボルなんです。実は。
あれ?って思いますよね。
「塔」でも書かれてたい通り、街灯はCodaとDavey2人にとって大きな意味を持つオブジェクトのはずです。
Daveyも熱弁してましたよね。
「これまでのCodaは目的もないままに奇妙で抽象的なゲームを作り続けていたが、今はすがりつく物を求めている」だから街灯を置くようになった、と。
要約すると「街灯に辿り着くことがそのゲームの目的である」ってことです。つまり街灯とは「そのゲームの言いたかったこと」「オチ」がそこに有る、と示す目印なんです。
でもそれって、実はDaveyの解釈でしかないんですよね。
これがこのゲームを複雑にしている原因なんですけど、プレイヤーが聞かされていたのは真実ではなくDaveyの主観なんです。
Daveyはきっと、最終地点にいつも置かれている街灯には何か意味が有る、と勝手に思い込んでいたんでしょう。
ここがCodaとDaveyを決定的に隔てる価値観の違いです。
Codaは過程に意味を見出し、Daveyは過程の先にある答えに意味を見出す。
Codaのゲームは街灯までの道のりに「意味」が有るんです。道のりこそが「そのゲームが言いたかったこと」なのに、Daveyの価値観ではそれが理解できないんです。
「家」の無限ループがいい例ですね。
「階段」のノロノロ歩きや「下へ」の1時間開かない牢屋、いくつかの迷路。Daveyが無駄だと判断してスキップしてきたものこそが、Codaにとっては重要だったんです。
街灯に関する2人の齟齬の説明は長くなるので後述します。
とりあえず、「街灯」の認識がCodaとDaveyでは違うってことです。
だから「家」の街灯だけは、さも街灯そのものに意味が有るかのような置き方がされていたんです。
解り易く言うなら、ラストシーンにおける主役が街灯そのもになっているってことです。
何故ならその目的地に到達することがDaveyの解釈する「家」というゲームのオチな訳ですから。
前の項でも語った通り、Daveyにとってあの掃除の無限ループはなんの価値も無い無駄なくだりなんです。
この「The Beginner's Guide」というゲームは短い尺の中に伏線や重要な情報がパンパンに詰め込まれているのでどこが一番重要だったかを選ぶのは難しいのですが、「家」でDaveyがCodaにしてしまった事というのは制作者が特に重要視している部分だと考えています。
だから「家」を修正していた事実だけ「塔」まで伏せられていたんじゃないでしょうか。
「塔」は物語のクライマックスです。
プレイヤーが「友達思いのいい奴」と思っていたDaveyが、実は「友達を潰した張本人」だったという事実が開かされる場面、いわばどんでん返しのシーンです。ここにあえて「家」の修正の話を持ってきたのは、それだけ「家」の修正がCodaにとって重大な出来事だったからなんじゃないでしょうか。
この「街灯を勝手に置かないでほしい」という言葉。
見た時は何かの暗喩かと思っていたのですが、実は文面のままの意味なんじゃないでしょうか。
つまり「家」のラストを勝手に作り替えたことがCodaとDavey絶縁の決定打になったということなんじゃないでしょうか。
もちろん、作品を勝手に公開したことや、Daveyのそばに居ると病的に苦しいといった別の理由も要因となったのでしょうが、決定打になったのは「家」改変だったと私は解釈しています。
この無限ループ修正という行為だけで、DaveyがいかにCodaを理解していないかが解りますよね。
無理解だけじゃない。彼の作品を勝手に変えてもいいという、彼そのものに対する軽視も見て取れます。
「塔」で露呈してた通り、DaveyはCodaのことを「自分の承認欲求を満たすための道具」としか見てないんです。
友達になろうと思ったのも、Codaが非凡な才能を持っていたからです。「Codaのゲームを自分のものにしたかった」と言っていたように、もしかしたら最初からアイディアを盗んだり、盗むまではいかなくともそれに近い下心を理由に近付いたのかもしれません。
Codaは心を開いて人と人としての関係を築こうとしたのに、Daveyは面白いゲームを作れるか否かでしかCodaを見ようとしなかったんです。
凄く皮肉な話ですよね。
DaveyがCodaのことをきちんと理解できていれば、2人の願いはどっちも叶ってたんです。
CodaはDaveyと一緒にゲームが作りたかった訳ですし、それを実現していたらDaveyも共作という形でCodaの作品を自分のものにできた訳ですから。
現実世界でのCodaとDaveyの友情は終わってしまいましたが、「家」の中でなら、2人は仲良くゲーム作りをしていられたんです。永遠に。
それを誰かが変えない限りは。
「これ、楽しい?」
っていうDaveyが用意したであろう最後のセリフは、Codaにどう響いたんでしょうね…。
■Codaのスランプの原因
「家」がCodaにとって大きな転機となったことは既に語りましたが、スランプに陥った根本的原因は別だと考えています。
それは承認欲求です。
Daveyが途中からすんごい承認欲求モンスター露呈し出したから解り難いんですけど、実はCodaも承認欲求を持っていたんですね。
持っていたというより、持ってしまったんです。
Codaは前述した通り「過程」に意味を見出していた人間です。せっかく作ったゲームを公開しないのも、それを公開して他者からの承認や評価を得ることに興味が無かったからです。
その結果の産物がプレイ不可能なゲームでした。
でも実は「家」以降の作品は、「塔」を除いてすべて修正されなくてもプレイ可能なゲームに仕上がっていたんです。
ここにCodaの変化が見て取れますよね。
Codaは作品を他人に見せたことによって承認される喜びと否定されることの恐ろしさを身をもって知ってしまったんです。
これがクリエイターにとっての地獄の始まりということですね。
Davey Wreden氏がこの作品で一番言いたかった事はこれなんじゃないかと私は思っています。
誰だって始めは楽しいからものを作るんです。
表現する行為そのものが楽しいから作るんです。
でも作品を公開し他人からの評価を得ていく内に、段々目的が手段に変わっていってしまうんです。
そしてその内に気付きます。「自分が楽しいと思うもの、したいこと」と「他人から賞賛されるもの」というのは全くの別物だという事実に。
特にCodaやDavey Wreden氏のようなニッチな感性のアーティストは、ここの齟齬に大いに苦しむと思います。
アイディアが浮かんでは没にし、やってみたい事を模索しては「承認されない」と抑圧し、「分かり易さ」と「芸術性」の狭間で逡巡している内に、自分が何を表現しかたったのかを見失います。
その結果「作りたい」という原動力も失ってしまう。
ものを作った経験がある人は誰もが身に覚えの有る苦しみですよね。
「島」の最後が刑務所になっていたのは、きっとCodaがあの頃の自分に戻りたいと強く望んだからなんでしょう。
他人からの評価など気にせず、ただものを作るというその行為を純粋に楽しめていた時分というのは、大半のクリエイターにとっての憧憬なんでしょうから。
■他人の作品を解説するという傲慢と「街灯」
前項でも少し触れましたが、このゲームはゲーム制作者じゃない人間が勝手に解説してプレイヤーを誘導しています。
ナレーションとは本来、ゲームを制作した人間の意図に沿ったものでなければならないんです。
Daveyは「ウィスパー」からいきなり迷路をブッ飛ばしてましたが、ナレーターがCodaだったなら絶対にそんなことは起きなかったはずです。
「このゲームは開発の中期で放棄されたみたいだ」と言っていましたが、最早それすらも正しい情報なのか怪しいです。
前述した通り、Daveyは街灯に関しても拡大解釈をしてそれをプレイヤーに植え付けていました。
Codaにとっての街灯とは、ただの目印に過ぎなかったのに。
でもCodaは「君に影響されて"答え"を設置するようになった」と書いていた通り、Daveyの為に街灯を置き続けたんです。
ややこしいですね。私もここの考察が一番難しかったです。
仮説で補いながらその経緯を説明していきますね。
まず、Codaは「下へ」で街灯を初登場させました。
この時点の街灯にはまだ「終わりはここだよと知らせる目印」の機能はありません。
でも「下へ」は今までのCodaのゲームとは違い、「ここでこのゲームは終わりなんだな」というのがちゃんと感じ取れる仕上がりになってましたよね。
「地下に下るに連れて青空が広がっていく」というこのゲームの奇妙さに対し、突然空が真っ暗になって街灯がポツンと佇んでいる、というラストにもオチらしきものがちゃんと感じられます。
だから多分、Daveyはこのラストに置かれた街灯を気に入ったんだと思います。
その影響からCodaはラストに街灯を置くようなりました。
単品では理解できなかったCodaの作品群に、分かり易い繋がりが生まれます。終わりが分かり難かったCodaの作品に「ここが終わりだよと教えてくれる目印」も出来ました。Daveyは更に街灯を気に入ります。
その影響から、Codaはまた街灯を置きます。
そうして街灯を置き続けている内に「暗い場所を照らす物」としての機能が形骸化していき、目印としての機能だけが残りました。
でもDaveyは毎回ラストに置かれる街灯というオブジェクトには、何か秘められた意味が有るのだろうと信じてました。
これが前項で語った街灯に対する認識の齟齬ですね。
Daveyは街灯が何を意味しているのか理解できなくても、ラストに街灯が置かれていることで納得できたんです。
そのゲーム単品では理解できなかったとしても、街灯という「ゲーム間の繋がり」が有ることでいずれは何か意味が見えてくるのだろうと信じてたから。
Daveyの感性からすると未完成に感じる作品でも、街灯が有ることで完成してると感じられたんです。
だからCodaは街灯を置き続けたんです。
自分にとってはただの目印でしかないオブジェクトを。
それでDaveyが納得するから。自分の作品を完成品として認めてくれるから。
作品のテーマをあえて解り難くする「芸術性」より、他人からの承認を得易い「分かり易さ」を採った象徴ですね。
Codaが自分の作品を「他人に見せるもの」と意識して作るようになった変化の表れです。
前項でも語った通り、この承認欲求が地獄の始まりです
プレイヤーであるDaveyの考察や解釈が、制作者であるCodaのゲーム制作理念に影響を及ぼしました。
もうお気付きですよね。
この作品がメタフィクションである理由は、Davey=私たちプレイヤー、Coda=Davey Wreden氏という図式を表現する必要が有ったからなんです。
私は「The Stanley Parable」をやってないし感想や考察も見てないのでかなり憶測にはなるのですが、Davey Wreden氏はゲームを通して自分の内面を丸裸にされることや、意図していなかった物事までも赤の他人にあれこれ言われるのが苦痛だったんじゃないでしょうか。
これもクリエイターには付き物のよくある悩みです。
しかも難しいことに、これらは全て自分を承認してくれたファンがしていることなので、害悪としてバッサリ切り捨てることもできません。
もし自分がされる側だったら、私も嫌です。
フィクションであることを前提に用意したセリフや行動理念に対し、自分の人格を勝手に決め付けられたり、自分の人生を語られたりするのは誰だって不快ですよね。
図星を突かれていたり、自分自身すら知らなかった自分の一面を大衆の面前で剝き出しにされたりするのは、もっと辛いでしょう。恥ずかしいでしょう。
でもファンは作品を通してでしか制作者を知れません。
そこしか材料が無いから、そこから情報を拾って考察や解釈をするしかないんです。そして作品と作者が大好きだからこそ、その作品を作るに至った原動力や作者のバックボーンが気になるんです。
複雑ですよね。その行為の根幹には間違いなく好意や憧れ、賞賛が有るのに、結果としてはクリエイターを害してしまっているんです。
まさにCodaとDaveyの関係性ですね。
今こうやって私がDavey Wreden氏の内面を勝手に考察してる行為も、Davey Wreden氏からしたら不快でしょう。申し訳ない。でも好きだから考察せずにはいられないんです!「意味」を見付けたいんです!
そして間違った解釈をして、それを読んで真に受けてしまった人間はその間違った先入観でもって作品を見ます。
Daveyに誘導されていた私たちプレイヤーのように。
この「The Beginner's Guide」というゲームは言ってしまえば、Daveyという間違った解説をした人間に乗せられて、私たちプレイヤーまでもが気付かぬ内にCodaを害する者の一端になってしまっていた、というなんとも皮肉な体験をさせられるゲームです。
ナレーターが最初から「このゲームは過程にこそ意味が有る」とちゃんとナレーションしてくれていたら、「牢屋に1時間とかナイわw」とか「掃除タスク無限ループとが何が楽しいん?w」とか思わなかったはずです。
自分が作った訳でもない作品を勝手に解説するというのは、それだけ傲慢で作者を害する可能性が有る行為だということですね。
街灯を生やすのも程々にしましょう。(自戒)
■Codaは「機械」の時点でDaveyと離れたかった?
以上のことから解るように、DaveyがCodaを害していたのは、実は作品を勝手に公開する(つまり「家」を勝手に修正する)前からでした。
悪気が無いにせよ、Daveyの存在がCodaのメンタルに悪影響を及ぼしていたことは「講義」からも顕著に解ります。
Codaの地獄の始まりはDaveyに作品を認められたいと思ってしまった所からです。
もっと言うならDaveyという自分のことを理解してくれない相手に対し心を開きたい、と望んでしまったことが不幸の始まりだったのです。
明示されていた訳ではありませんが、文面からもDaveyが日頃からCodaを批判、もしくはそう取れるようなアドバイスをしていたことが伺えます。それがどういった形のアプローチだったのかまでは解りません。もしかしたらDaveyは単純に自分の考えをただ正直に伝えただけだったのかもしれませんし。
Daveyは人懐っこくてコミュ力が有る反面、強引で独善的な印象を受けます。(そもそも短期間で人の懐に入り込むにはある程度の強引さと独善性が必須ですから、理に適った性格ですよね)
その強引さと独善的な態度が日々Codaを苦しめていたというのは、さすがに拡大解釈が過ぎるでしょうか…?
でも自分には「機械」がDaveyへのメッセージに感じてならないんです。
「機械」では初めてゲーム内にCodaの名前が出てきましたが、これはプレイヤーはCodaではない(つまり自分と対話するゲームではない)ということを明示したかったからなんじゃないでしょうか。
「劇場」~「島」は明らかにCodaお得意の自分との対話でしたが、「機械」はそこに並ばないように自分は感じるんです。
「機械」とは、作品を作ってくれなくなったCodaという名の機械からプレイヤーが独立するゲームですよね。これまでの作品をプレイヤーに銃で破壊させたのも、Daveyに自分の作品から卒業してほしかったからなんじゃないでしょうか。
「もう僕の作品に執着するのはやめて、自分自身と向き合ってくれ」というメッセージだったんじゃないかと私は考えています。
これはかなり憶測になるんですが、Daveyはもしかして、作品を勝手に公開する前からそうしようとする兆候が有ったんじゃないでしょうか。
もしくは「公開しようよ」とCodaに再三進めていたのかもしれません。
自分の作品を公開する(もくくは公開される)ことに対するCoda自身の恐れがパターン②で、パターン①がDaveyへのメッセージとも解釈できますし、
Daveyが他人の作品を使って承認欲求を満たそうとするのは、自分の作品を通してありのままの自分を他人に見られてしまうのが怖いから(つまり自分自身と向き合えていない)と指摘しているようにも解釈できます。
どちらにせよ、「機械」の時点で既にDaveyに対してあまり良い印象を持っていないように感じます。
そう考えると、「家」以降の作品もなんとなく筋が通ってるように見えませんか?
単純なスランプの苦しみの作品群ではなく、Daveyへの気持ちの変化がちゃんと見て取れるんです。
こんな感じです。
これまたかなりの憶測なんですが
「塔」のDaveyの口振りを聞いてると、Codaの作品を勝手に公開して承認欲求を満たしていたのは、どうも一ヶ月という短い期間ではないように感じるんですよね…。
セリフにDavey Wreden氏本人の感情が滲みすぎたのか、あるいは初犯でなかった、つまりCodaの前にも同じようなことをされた人間が居るということの示唆なのか…う~~~んこの辺は自分には解りません。
皆さんはどう解釈していますか?
聞かせてもらえたら嬉しいです。
■「The Beginner's Guide」は何が言いたかったのか
一言に絞るのは難しいのですが、承認欲求はクリエイターにとってエンジンでありブレーキでもある、ってことだと自分は解釈しています。
作品を通じて自分の内面が丸裸にされる怖さ、勝手にあれこれ解釈される不愉快さ、ファンの期待に応えられなかったらどうしようという不安。それらは全てクリエイターを潰しかねないブレーキになりますが、根幹に有るのはクリエイターに対する承認、賞賛、愛です。
表裏一体ってことですよね。
だからこそクリエイティブは難しく、そして素晴らしいんだよ、ってことだと思います。
また、Davey Wreden氏が売れるクリエイターに成るに当たって捨てなければいけなかった自分への追悼という一面も有るのかなと思っています。
かつてCodaだったDaver Wreden氏の成長と、少しの未練…といったところでしょうか。
何にせよ、健やかに生きて欲しいと願うばかりです。
以上、長い文章を読んでくださって本当にありがとうございました!
実況した時の動画も貼っておきすので、もし良かったら見てやってください!
◆実況動画◆
https://youtu.be/5ngrb6Ow1B0
そしてこんな長文を最後まで読んでくださったこのゲームにぞっこんのあなた!
L4D2というゲームのアドオンマップにこの「The Beginner's Guide」と「The Stanley Parable」をパロディしたとっても哲学的で素晴らしいマップが有ります!
私はそれに惹かれ、理解したいが為に「The Beginner's Guide」と「The Stanley Parable」を買いました。
リンク貼っておくのでもし興味が有ったらどうぞ。
(L4D2はセールの時200円ぐらいで買える神ゲーです)
(アドオンマップとはファンが制作したマップのことです。課金不要、無料で遊べます)
※別に私はどこの回し者でもないです。
これ貼った所で1円の特にもなりません。
※単純にこのマップが大好きなので色んな人にやってもらって感想が聞きたいだけです。
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