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1991年、本田宗一郎さんが亡くなられました。
「成功とは99%の失敗に支えられた1%である」
「私は他人の真似をするのが大嫌いである。真似をして楽をしたものはその後に苦しむことになる」
という言葉を残されています。
社葬は故人の遺志に従って行わず、東京、鈴鹿、浜松で「お礼の会」が行われたとか。
その月8日に行われたF1ハンガリーグランプリにはホンダ・マールボロ・マクラーレンチームは全員が喪章をつけて参加。
アイルトン・セナはポールポジションからスタートして優勝しました。
セナ、カッコいいなぁ。
最高の感謝の示し方。


1913年(大正2年)、岩波茂雄が神田神保町に岩波書店開業。
時に茂雄、31歳。最初は古書を扱う書店でした。
田舎の田畑を売って工面した開業資金は8千円。
店の造作に千円。古書に2千円。毎年2千円を回転資金にしようとはじめました。
結構、しっかりとした考えです。
友達を通じて、看板は夏目漱石に書いてもらう事に成功。
開業2年目に夏目漱石「こころ」の新聞連載が終わり、自費出版の形で岩波が出版したんですが、これが処女出版。
こんなラッキーなことがあるでしょうか。
新聞連載が自費出版って今でもあるのかなぁ。
あっ、ぼくの新聞連載、出版するとすれば、自費出版か…。
現実を突きつけられました(笑)。

1962年、マリリンモンロー、ヘリナードライブ5番の自宅で死体となって発見。36歳。
睡眠薬飲みすぎによる事故死?自殺?または他殺説も。
真実は闇の中。

元治元年(1864)、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四国連合艦隊17隻が長州藩の下関を攻撃。
これは前年に関門海峡を通ったアメリカ商船を砲撃した報復でした。
これだけ見ると、長州は攘夷バリバリに見えますが、裏では海外の先進的な学問を学ぶために長州ファイブをイギリスのロンドン大学に送っております。
長州の二面外交。

1924年(大正13年)、パリでの第8回オリンピックに織田幹雄が初めてオリンピックに出場した日。
その時の結果は走り幅跳び10位、三段跳び6位で入賞でした。
しかし、4年後のアムステルダム大会(8月2日)で日本初の金メダルを三段跳びで獲得。
その時、なぜか、国家は「君が代」からではなく「さざれ石」から始まり一瞬で終わったんだそうです。
今は「君が代」を歌えない方も多い時代ですが、当時はみんな歌えたでしょうから、驚いたでしょうね。
ほぼ終わりから始まって、一瞬で終わる!!
それだけではなくて、「日の丸」の準備もなかったんです。
よっぽど日本がメダルを獲るとは思われていなかったんでしょうね。
日本選手団がもっていた日の丸をメインマストに掲揚して、事なきを得たそうです。
それから続いてのオリンピック2大会では南部忠平、田島直人が三段跳びで金メダルを獲得。
なんと、三段跳びでは三大会連続で金メダルを獲得していたんです。


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