ある射種
的までの距離は二十八メートル。射手は一本の矢を番え、弓を引き絞り、一点に放つ。矢を放った弦は弓をも弾き、乾いた竹が割れたような音――ツルネを道場に響かせる。
的は動かず、矢を射る射法は一定。ゆえに人体置換技術が普及し、プロユースの義肢によって誰もが完璧な射法を手に入れた時、弓道という武道の競技性は失われた。やがて道場は逃げるように現実から仮想の世界へ居を移した。
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二十八メートル先の厚みのない的を狙い、描画された矢を番え、物理演算のもと弓を引き、論理的帰結を以て放つ。音すら模倣するフルダイブ型の仮想現実で、すべての射手が正しい射法と寸分違わぬ狙いをつける。
競技では一人四射を二十五回繰り返し、合計百射の判定をAIが行う。AIがもつ判定指標は一つ。
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射手が弓を引く形の真と射手自身の心の善が一体を成し、美しいツルネが的中をもたらす。すなわち真善美という指標。判定AIによって的中はより純粋に射手の精神に左右され、弓道は精神的競技性の再獲得を成し遂げた。
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歓声が沸き起こった。勝者を称えるだけではない、憧憬の込められた熱狂的な歓声だ。
慢心せず常に静穏な心で弓を引けば必ずあたる。それが真善美の意味するところであり、抽象的であるが故に人の身体と心では乱れが生じる。そこにあたりとはずれの差異が生まれ、完全な仮想世界でのAI判定競技として成り立つ。そのために世界の鞍替えまで行ったのだ。
だから、たったいま隣で達成されたような、百射皆中などありえないことだった。
ハンドルネーム“ホープ”。彼女は弓を引き始めてからこれまで、ただの一度も的を外したことがない。なぜそんなことが出来るのか聞くと、自分を信じているからだと言う。真善美を体現するにはそうあるべきかもしれないが、答えにはなっていない。
「良い弓でしたよ、トオリさん」後ろで一つに括られた髪が揺れる。
「比べるのもおこがましい的中差ですけどね」
彼女は気さくな人柄で、弟子にしてほしいという私の急な願いにも応じてくれた。なぜ弟子にしてくれたのか聞くと、一射目が特に良いツルネだからだと言う。評価は嬉しいが、やはり答えにはなっていない。
彼女の弟子となって既に一年。技術的な教えを受けたことは一度もなかった。
一射目
練習を重ねても、本番で普段通りの自信を持つことは難しい。少しでも見栄をはろうとすれば射法は真から外れ、心の静穏も望めず、美しさなど現れない。理想はあれど答えはなく、考えれば考えるほど思考の渦に飲み込まれていく。雑念にまみれた射では案の定、的の右下へ矢は飛び、即座にはずれとAIに判定された。
二射目
あたった。考え過ぎた一射目の失敗を補えたのかはわからない。とにかくあたりと判定されたのであれば、このまま維持すればいいかもしれない。
三射目
はずれ。大きく左上に逸れた。次はどうすべきか、彼女はどうしていたか、自分はどうすべきか。これまでの真と善が自分の中で錯綜し、手は四射目の矢をすぐに番えた。
四射目
もっと考えて丁寧に弓を引けば結果は異なったのか? AIは外れた理由を教えてはくれない。
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どんなに不甲斐ない結果であっても彼女は怒らない。かわりに自分がどう引いているのかを惜しげも無く見せてくれる。
一射目
私が生きたこれまでの過去に間違いなどありません。
二射目
私が生きている現在に恥じることはありません。
三射目
私はこれからの未来も生きます。
四射目
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初めから決まっていたことであるかのように、慢心も強欲もない完璧な射で彼女は的中させる。彼女の射を見ていると、同じ競技なのかすら疑問に思える、私と彼女の間に断絶とも言える明らかな意識の違いを見せつけられるようだった。
「自分を偽らない気持ちと平静を保つ正しい心で射れば、必ずあたります」彼女は呟きながら、まっすぐにこちらを見ていた。
数ヶ月後、自分が初めて外すなどとは少しも疑わない瞳だった。
「彼女は四射目を外した。しばらく的を見ていたが、何も言わずにいなくなったよ」
「大勢に見られていたから、恥を感じたのかもしれない」
「俺の学生時代には、四射目だけ外す奴はチキンと呼ばれたものさ。プレッシャーに負ける臆病者」
多くの憶測を聞くほど、観客の想像上で弓を引く彼女と、自分が見た彼女の姿が乖離していった。臆病者であるはずがないと思った。
それからも彼女は姿を現さず、引退という言葉が囁かれ始めた頃。一通のメッセージが私に届いた。待っている、という言葉と位置座標が記載されたメッセージで、差出人はホープ。書かれていたのは仮想世界の座標ではなく、現実の座標だった。
指定された場所には廃墟となった研究施設があった。蔦に覆われた門は錆び、立ち入り禁止と書かれた看板は文字がかすれている。中に入ってみると、天井の一部は崩落し、入り込んだ土砂や雑草が月明かりに照らされていた。無人のように思えたが、かすかに聞こえる音を辿ると二十畳ほどの開けた場所に行き着いた。PVC製のカラフルな蔦のように、四方の壁が幾万本ものケーブルに覆われたサーバールームのような場所だ。土がむき出しの床には、腰高程のガラスケースと古びたモニターが置かれていた。月面に立つモノリスみたいだった。
ガラスケースは曇っていたが、近づくにつれて中身がはっきりする。植物だ。一株のシダ植物が収められている。近づくと、傍に置かれたモニターが文字を映した。
『こんばんは、トオリさん』
私を呼んでいる。ハンドルネーム“ホープ”が、彼女がそこにいた。
『迷わずに来られましたか?』
『ここは仮想現実開発の黎明期に乱立した研究施設のひとつなんですよ』
『予算打ち切りで放置なんてひどいですよね』音を立てることなく、モニターは文章を打ち替えていく。
「なぜ私をここに?」音声を拾うマイクは近くに見当たらなかった。
『お願いを聞いてもらうために呼びました。一射目のツルネがとびきり良いあなたであれば、これからするお願いに悪影響を受ける可能性は低いと思って』
以前の会話の続きでもするかのように、彼女は気さくな調子で続けた。
『私を引き抜いて捨ててほしい』
なぜ、と再び私は尋ねた。
『四射目を外した私は、もう二度と的中しないから』カチリ、と部屋のどこかで音がした。
正しく安定した一射にはあたりという結果が判定される。真善美とは思想ではなく、判定AIのシステムである。彼女の言葉はつまりそういうことだった。
『四射はそれぞれ参照するディレクトリが異なるのです。一射目は射手の過去を、二射目は現在、そして三射目には未来を演繹してAIが的中判定を下す』
射手自身の行動ログ、バイタル情報、予測推定される行動リスト、インベントリのすべての射手情報との比較。それが判定AIが評価する真善美だと彼女は言った。
『納得は求めませんが、あなたが知る私はヒトではない。私の参照先とは植物の過去であり、植物として生きる現在であり、植物として生きていく未来です。いずれのディレクトリにも、ヒトのような不安や動揺が入り込む余地はありません』
「それなら、四射目は?」
『渇望』モニターに即座にその言葉が映し出された直後、
『欲望』
『羨望』
『人望』
『絶望』
『希望』間断なく次々に文字が現れては消えた。
『いくつか言い表すセグメントはありますが、精神的な強度と言っていいでしょう。翻って、植物という種が有する精神は一定の強度を持つことが示されました。少なくとも仮想現実内では』
それを研究する施設がここだった、と私が相槌を打つと、モニターには笑った顔文字が表示された。
『人間以外を仮想世界へ送るというテーマに、予算がつきやすい時代がありました』
「それならなぜあなたを捨てる理由が」
『示すべき結論は導かれて目的は達成された。私がこれ以上に望むものはなく、過去現在未来いずれにも強度がなくなりました。もう二度と的中することはないでしょうが、他の種はもう少しうまくやるでしょう』
「他にも同じような存在がいるって?」
『ヒトの競争相手がヒトだけとは考えないことです。既にすぐそこまで来ていますよ』
私はそれ以上何も言えなくなり、ただ彼女が伝える文字を見続けていた。
『ヒトが競う相手はヒトだけではなくなる。それはやがて競技の枠を超え、数多の課題を生むかもしれない』
『その鏑矢として、これから多くの射手が』表示は一度そこで止まった。やがて全文削除され、すぐに打ち直された。
『多くの射種が現れることでしょう』
さぁ、と彼女は私を促した。私は何も言わず、黙って彼女に従った。
『ヒトよ』
私はガラスケースを外し、彼女の細く柔らかい茎に手をかける。
『渇望し続けなさい』
滑らないようにしっかりと握りこんで。
『しかし絶望するな。願わくば』
根が土を掴む抵抗を振りほどき、一気に引き抜く。
『希望を』
私の手に植物が横たわり、どこかで再びカチリと音が響いた。
私と彼女の逢瀬は生配信されていた。音声はなく映像だけの配信。映っていたのはシダ植物と走査線のチラつく骨董品のようなモニターだけ。文章を表示し続けるモニターと根を引きずり出される植物の映像は、退屈で、滑稽で、生々しかった。
『希望を』
最後はその一行だけを残して、一株の植物は画面から消え失せた。
私は彼女の言葉をすべて公開した。議論や憶測はいくつも飛び交ったが、映像がある射手の最後の姿を映したものであることは誰も気がつかなかった。
これまでと変わらず、一本の矢を番え、弓を引き絞り、一点に放つ。
二十八メートル先の的に向かって、寸分狂わぬ動作が射法をなぞる。
四射目を番える手に、ヅルヅルと根のちぎれる感触が甦ってくる。
希望がもたらすツルネの響きを、私はまだ知らない。
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