ヴィパッサナ瞑想体験記その4
気になるおじさん
おじさんは60歳を過ぎているのだろう。からだもそんなに丈夫じゃないみたいだし、一時間座っているのもつらそうに見える。それでも他の人と同じようにがんばっているのは偉いと思うのだが、なにげなく動くなかでとにかくいろんな音を出すのだ。
ゴホン、とか、ゲ、とか、フー、とか。咳払いはもちろん、立つとき座るときに「よっこいしょ」「あー」。ときどき「プッ」。それが一度気になり出すと、衣擦れの音、鞄をあける音までも、気になる。
そしてこの二日目の昼食のあと、ほかのふたりが食事を終えて出ていったあと、なんとおじさんがぼくのほうを振り向いて、おじぎをして、言ったのだ。
「わたし、いびきがうるさいでしょう。部屋、代わりましょうか?」
おいおい! 聖なる沈黙はどこへいったんだ。
一瞬目を閉じたのだが、再び目を開けるとおじさんがにこにこしてぼくの顔をのぞきこんでいる。初日のセンター側からの説明では、こういうときは無視してください、との話だった。しかし、それもあんまり可哀想。この場を乗り切るには……と、つい、
「大丈夫です」
と言ってしまった。あーあ、ぼくのほうまで沈黙を破ってしまったじゃないか。このことがあって、ますますおじさんが気になりだしてしまった。
さて、瞑想のほうはあいかわらず顔の真ん中の三角形のなかで、吸う息と吐く息を意識している。一日目は雑念ばっかりで、数十秒も集中していられなかったのに、一日中練習しているおかげだろうか、だんだん一分二分と呼吸に集中できるようになってきた。
これがヴィパッサナ瞑想なのだろうか、と思っていたら、二日目の晩の講話のなかで、四日目にヴィパッサナ瞑想が授けられるということが明かされた。ぼくらがいま一生懸命呼吸を観察しているのは、アナパナという名前の瞑想法だったのだ。これは釈尊以前のインドでも伝統的な瞑想法で、アナパナとは文字どおり吸う息吐く息という意味だと言う。
二日目の夜の瞑想が終わり、ひとりで風呂に入る。しゃがんで入っても一杯になってしまうようなせまい浴槽だけど、やっぱり生き返ったような気がする。しかし、10日間は長い。まだまだこれからなのだ。
3日目
3日目は意識する部分をさらに小さくする。今までは上唇を底辺とし鼻全体を頂点とする三角形を描いていたのだが、こんどは上唇を底辺として鼻の穴の入り口を頂点とする三角形の部分に意識を集中する。つまり、「鼻の下」「鼻の穴の入り口」だけが意識の対象となる。
しかも今度は空気の流れを意識するのではなく、その小さな三角形のなかで起こっているあらゆる感覚に気づいているように言われる。つまり、空気が触れる感じだけでなく、かゆい感じ、痛い感じ、膨らむような感じ、どんなものでもいい、感覚を感じるように、と言う。
そしてなんらかの感覚があったら、それを観察する。
「え〜、そんなの感じるわけないよ」「うまく感じられなかったらどうしよう」
そんなことを思う。別に感じなければいけないというわけではないのに、まるで試験を受けるような気もちになってしまう。
でも、これが感じるんですねえ。
最初は鼻の穴から出る息を感じるだけだった。しかし、この小さな三角形に集中していると、ほんのときたま、かゆいような感じが起きるのだ。最初は気のせいかと思う。まあ、そういうこともあるだろうな、と軽く受け流す。かゆいような感じはすぐに消える。また、吐く息を感じる。
しばらくすると、今度は、毛の先ほどの細い針で刺されたような感覚。それもまた、すぐ消える。
だんだん、この小さな三角形のなかで、実はいろんなことが起こっているというのが分かってくる。これは一体なんなんだろう。なんでもないのかもしれない。多分、なんでもないんだろう。でも、感じることは確かなのだ。
そして、小さな三角形に意識を集中していると、だんだん雑念が少なくなっていく。意識を集めること自体が面白くなってきて、会社でのこと、家でのことを思い出さなくなってくる。こんなにひとつのことに一生懸命になるなんて、集中力の足りないぼくにしては、生まれて初めてのことだ。
(続く)
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