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「宗教・霊性・意識の未来」のシンポジウム。

 私が初めて吉福伸逸さんに会ったのは1993年の7月こと。この『宗教・霊性・意識の未来』(春秋社)が出たのも93年の7月なのだけど、果たして吉福さんに会ってから本を読んだのか、あるいは本を読んでから吉福さんに会ったのか、どうもはっきり覚えていません。でもこの本の内容は鮮明に覚えています。衝撃でした。

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 シンポジウムがおこなわれたのは1992年7月12日(西武百貨店池袋コミュニティ・カレッジ)。企画したのは当時、春秋社の編集者だった岡野守也さん。パネリストは吉福さんに加えて、宗教学者の鎌田東二さん(武蔵丘短期大学助教授)、島田裕己さん(日本女子大学助教授)、島薗進さん(東京大学助教授)。オウム真理教や幸福の科学など、いわゆる新新宗教が世の中を騒がせていた当時、メディアで積極的に発言していた論客たちです。司会は元『アーガマ』編集長松澤正博さん。

 岡野さんの気持ちとしては、原理的な宗教の時代は終わり、もっと普遍的な霊性=スピリチュアリティというべきものの変革によって、未来が開けてくるはずだ。この分野で名の知られている論客たちが、大枠だけでいいから合意に達したら社会にもインパクトを与えられると思っていたそうです。

 ところが岡野さんの思いはシンポジウムが始まってすぐ、吉福さんの最初の発言によって打ち砕かれてしまいます。以下引用。

「ぼく自身がセラピーを長年やってきたものですから、そういったものに触れることが多いからかもしれませんけど、たとえば特定のセラピストのあいだでは人間のなかにはある共同体があるという。その共同体のことをわれわれは〈悲しみの共同体〉と呼ぶわけですけど、いかなる人間といえども、いかに社会的に強い姿勢を取ったり、いかに社会的に理性的な知的な立場にある方だとしても、ある特定の条件下に置かれれば、いかんともしがたい悲しみに包まれてしまうような側面が人間のなかにはある。その悲しみというのは、百パーセントとはいわないまでも、ほぼだれにも共通するそうとう普遍的な部分であって、その部分に触れることによって、数多くの人が日常的に体験する傷、苦しみのようなものをある程度癒やすことができる。おそらくそれがみなさんのおっしゃっている霊性あるいはスピリチュアリティと呼ばれるもののひとつの側面ではないか、というふうに思うんですね」

 最初に〈悲しみの共同体〉という文字を目にした時は、ん? と思いました。ずいぶん情緒的な表現だと思ったのです。ところが会場で、吉福さんの存在感を目の当たりにし、低くよく通る声を耳にしたパネリストたちは、心臓を鷲掴みにされてしまったようです。

 鎌田東二さんは「感動して聞いていたので、言葉が、出ません」「ぼくは自分が新霊性運動のただ中にいる一人だと思っておりましたが、しかし、それほどうまくバランスが取れるような人間ではありません。むしろ、吉福さんのいう悲しみの共同体に浸ってきた人間だということにいま気づきました。悲しみの共同体という言葉がとても重く響きました」とコメント。

 島薗進さんも「わたしもたいへん共鳴というか、吉福さんのおっしゃることがひじょうにわかるような気がいたしました。わたしがいったことで、宗教のなかで救いということがどうしてこんなに大きな意味を持ってきたんだろうということを、ある意味で補っていただいたというふうに自分勝手にとらえております」。

 かつて『タオ自然学』をともに翻訳した島田裕巳さんは「わたしはただ吉福グルの発言を聞いて、きょうお会いしてまたたぶん当分お会いしないことになるんじゃないかと思うんですが、そのあとはその教えを生活の糧にしながらしばらく生きていきたいな(笑)と思っているわけです」といい、「このシンポジウムに参加し、吉福さんの発言を通して、自由の価値を改めて確認した。問題点が明確になり、これから自分がどう生きていけばいいのか、重要な示唆を得ることができた」(シンポジウムのあとで)と書くほど。

 どうしたことか、気鋭の宗教学者たちがアイドルを前にしたファン、グルを前にした弟子のようになってしまっているのです。

 一方の吉福さんはシンポジウムの最後までマイ・ペースです。スピリチュアリティの話そっちのけで、サーフィンの話をはじめます。

「いまぼくはすごく好きなことを見つけたんです。いっしょうけんめいサーフィンをやってまして、ハワイを離れて十日になるんですけど、友達と電話で話していたら、それ以降二度ほどいい波が来たらしいんです(笑)。(中略)『いい波がある』といわれると、胸騒ぎがして帰りたくなる」

「たぶんこの興味はずうっと続くと思うんです。なぜかといいますと、波には二度と同じものはありませんし、つねにスリルがあって、命がかかっている。ちょっと気を許すと珊瑚礁にたたきつけられたりしますから、おそらくこの興味は当分続いていくと思うんですね。宗教よりも、どんな深いスピリチュアリティよりも(笑)、波に乗って、気持ち良く波そのものになったときのあの気持だけは忘れられませんので、早くハワイに帰って、サーフィンをやりたいです(笑)」

 吉福さんさんにとってはこの時点ですでに、「精神世界」も「トランスパーソナル」も「スピリチュアリティ」も過去のものだったのかもしれません。もちろん自己探求が終わってしまったという意味ではなく、なにかの理論とか技法を追求するのではなく、その優劣を論じるのでもなく、なにげない日々の営みのなかで、自然との対峙のなかで、内面に心を向けていく、自己と向き合っていくという方向性を確立していったのではないかと思います。

 とはいえ、こうした吉福さんのあり方に反発したのが松澤正博さん。同書の「シンポジウムのあとで」ではこんなふうに書いています。

「ニューエイジなるものが上陸してよりこのかた、私がつねに反発し続けてきたのは、じつはこのような表現であった。正確に言うと、このような言葉で『ひっかける』ような人や状況、このような言葉に『イカれる』人がとても嫌であり、もっとも嫌だったのはこのような言葉で日本の精神状況を『ひっかけ』たと思いこんでいる人の表情であった」。

 実はこの松澤さんと吉福さんの因縁も、浅からぬものがあります。以下、松澤さんがこのシンポジウムで語った内容です。

「吉福さんとは一九八三年あたりに知り合いまして、八四年から八六年にかけて一二、三回ほど対談を重ねました。」

「日本へ帰ってきて、ほとんど仕事せずに、アフォリズムを書いていて、それがすごくて吉福さんに原稿をお願いしようという気持ちになったことを、いまも鮮明に憶えています。」

「禅といってもけっして道元ではなくて、『臨済録』『六祖壇経』のように、とにかく鋭くって、禅機に溢れていて、ちっともリゴリスティックではなくて、パンクなんですね。「直指人心」という言葉がそのまま当てはまるアフォリズムだったんです。「ここまで書ける人が、日本にいたんだ」ということで、ほんとうにびっくりしたのですが、それからもう十数年経って、今日はまた四年ぶりくらいにお目にかかれたわけですが、語っておられる世界そのものは変わっていないけれども、優しくなられて、受容などという言葉が吉福さんの口から出たりして、わが耳を疑いました(笑)。」

「当時のことでいいますと、吉福さんはほとんどヒッピーのような格好をしていて、食事などをしてもいつもぼくがお金を払っていたわけですが(笑)、ふつうは「ごちそうさま」とかいうわけですが、「ちょっとタバコ買ってくれる?」とかいわれて、タバコを買ってあげたり(笑)、出家とダーナ(旦那)というか、ヒッピーと良識ある市民というか、いつのまにかそのような関係にもつれこんでしまうのが常でした。」

 ここでいう「アフォリズム」とは1978年に出た『やさしいかくめい』(プラサード出版)所収の「我が儘のすすめ」のことでしょう。この文章、好きな人が多いですね。『静かなあたまと開かれたこころ 吉福伸逸アンソロジー』(サンガ)に収録されているので、興味のある方は読んでみてください。

 実際のところ、岡野さんと並んでもっとも吉福さんに肉薄したのが「アーガマ」編集長当時の松澤さんでした。いま「アーガマ」を読んでも、たとえば雑誌「サンガ」で取り上げていたような話題は30年も早く、ずっと深く掘り下げてあつかっていたように思います。

「アーガマ」での吉福さんと松澤さんのコラボレーションは『吉福伸逸アンソロジー』所収のもの以外にもすごい分量がありますので、いつか日の目を見ることがあるといいなあと思っています。



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