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ヴィパッサナ瞑想体験記その7

京都の山奥での瞑想合宿も7日目。足の痛みに耐えながら座り続けていると、すこしずつコツもわかってきて、心がどんどん静かに集中してくるのがわかります。そんなとき参加者のひとりが、「これ以上続けられない、帰る」と言い出したのです。

白隠禅師の「軟酢の法」。

 この痛み、かゆみ、何かが触れるような感じ。それは過去のサンカーラが浮上しているのである。無意識に蓄えられた、自分では忘れている過去の出来事への反応、反発が少しずつ表面に現れているのだ。だから冷静に、観察しなさい。観察することによってそれは消えていきます。それはアニッチャー=無常であると知りなさい。

 こうしたゴエンカさんの言葉に励まされて座り続けるのだが、この膝の痛みはどう考えたって物理的なものじゃないか? そんな疑いも生まれてくる。

 この日のグループ瞑想では、できるだけたくさんの部分を一度に感じるようにしなさい、と言われた。皮膚の表面をはけで掃くような感じで、あるいはもし可能ならば、全身を自由な流れとして感じる。そしてその中で感じるこができなかった部分、あるいは粗いごつごつした感じがある場合は、あとで部分部分を感じていく。できるだけ広い範囲で頭のてっぺんから爪先まで行き、爪先から頭まで戻ってきたら、こんどは細かく部分ごとに見ていく。2往復でワンセット、というわけだ。

 頭の後ろ全体、これはやさしい。顔全体、これもできる。顔がもわーんとなにかにつつまれる感じがある。肩から腕、これがけっこう難しいのだが、無理に感じようとするのではなく、上から下に、すこーしずつ、感じる部分を延ばして行く。不思議なことだが、なにか暖かいゲル状の液体が、少しずつ流れていくような感じがある。

 そのとき、あっと思った。臨済宗の中興の祖と言われる白隠禅師は、座禅のやりすぎで一種の精神病になってしまったとき、「軟酢(なんそ)の法」なる瞑想でその病気を治したと言う。暖かいバターを頭のてっぺんからたらしていき、からだ全体を覆っていくイメージを瞑想するのだ。もしかしたらそれはヴィパッサナ瞑想だったのではないか…。

 今思い出してみるとこのとき、こころはとてつもない静かさに満たされていた。意識はからだの感覚だけに向かい、今、そこで、なにが起こっているのか、ただ見ることだけに全神経を使っていた。

 だがそれも2セットくらいまでが限界。だんだん足が痛くなってくると、集中がとぎれてしまう。考えることは足の痛みばかり。

 トイレに行くために外へ出ると、ひとりのおばさんが荷物を抱えてタクシーに乗り込むところだった。前日の夜、講話が終わったあと、先生に相談していたひとだった。

「瞑想していると、自分がどこにいるのか、まったく分からなくなってしまう、なにも感じなくなってしまう」

 そう涙声で訴えていた。この10日間のコースでは途中でセンターを離れること、外部と連絡をとることは一切認められていないのだが、もうこれ以上続けることができなくなってしまったのだろう。ぼくだって、いつまで耐えらるか、分からない。

痛みと向き合う。

 午後のグループ瞑想のとき、30分も我慢できなくなるほど足は痛かった。このコースが終わるまでに、1時間座り通すことができるようになるのだろうか。不安がつのる。

 でもこれはほんとうに足が痛いから座れないのか、疑問も湧いてきた。座るときは目を閉じている。時間も分からないし、ほかのひとがどんなふうにやっているのかも分からない。自分がやっていることがこれでいいのか、もしかしたらまったく間違ったことをやり続けているのではないかという疑問もある。

 そうした不安に増幅されて、痛みがその実体以上に大きくなっているのではないか。30分で足を解いてしまったときも、あと一分だと言われれば、座ることはできた。ようするに問題は痛みではなく、こころにあるのではないか。自分で限界を作ってしまっているのではないか。

 今日は7日目。これで座り通せなかったらもう後がないという気持ちで座ろう、と決心した。

 午後6時からの、この日最後の瞑想。もうどうにでもなれ、という気もちである。できるだけ多くの部分を感じるやり方と、部分部分を感じていくやり方を交互に繰り返す。最初の30分くらい、これは我慢できる。

 だが3セット目くらい、それこそ足を感じるのは恐怖だ。しかし、とにかくアニッチャー、平静にと呼びかけ、痛みで顔がゆがみそうになるのを、無理に穏やかなものに保って、痛みを観察する。膝の表面、これはあんまり痛くない。膝の裏、これも大したことはない。痛いのは膝の内部だ。じんじんと、内側から痛みがわいてくる。

 しかし、正面からその痛みと対峙していると、ちょっと違った感じが起こってくる。痛んでいるのは膝で、自分ではない、という感覚だ。それまで痛みを自分の内部のものとして感じていたのに、それが他人事のように思えてくる。

 ひとつの場所にあんまり長くとどまっていてはいけないので、ふくらはぎ、足首、足の裏と移っていく。ふくらはぎも確かに痛いのだが、膝に比べればまだまだである。

 今度は右足の腿、膝、ふくらはぎ、と観察していく。さっきは左足の膝が一番痛いと思っていたのだが、やっぱり右足のほうが痛い。でも今度はその痛みを、興味をもって見つめている自分がいる。右足が終わったら、また右の爪先からさかのぼっていく。そして左足の膝。やっぱりここが一番痛い。しかし先を急がないで、じっくり痛みに向かい合う。

 そのときふと思った。ぼくが今までやってきていなかったのは、まさにこのことではなかったか。痛みに向き合うということ。現実に向き合うこと。それを今、初めてやっているのだ。

 そう思うと、それまで一時間も我慢できなかったのは、痛みのせいではなく、痛みに対する恐怖心と、逃げの心。そのふたつが座り続けることをできなくしていたということが、理解できた。

 なんだか痛みがさっきの痛みとは違うような気がしてきた。意識を他の部分に移したあとも、足は痛んでいる。でも足を延ばして一時間を無駄にしてしまうほどの痛みではない。

 そうしているうちに、ゴエンカさんのテープの声が聞こえてきた。

「アニッチャー(無常)、アニッチャー(無常)」

 そうか、あと5分だ。そう思うと、足の痛みもほとんどない。

「サベカ・マンゲレン〜、サベカ、マンゲレン」

 ゴエンカさんの声が遠ざかっていくのを聞きつつ、なんとも言えない満足感がわいてくる。

「5分ほど休憩をとります」

 先生の声にも、からだを動かす気がなく、しばらくその場で、その感覚を味わっていた。


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