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ヴィパッサナ瞑想体験記その5

4日目、ヴィパッサナ瞑想の説明。

 朝から、上唇を底辺として鼻の穴を頂点とする小さな三角形のなかで起こっていることを観察する。

 4日目の午後、3時からのグループ瞑想が終わったあと、1時間に渡ってヴィパッサナ瞑想の説明があった。テープのゴエンカさんの声が言うには、ヴィパッサナというのはパーリ語。vipassanaのviは「分析する」という意味。passanaは「見ること」。つまりヴィパッサナ瞑想とは「分析して見る」瞑想ということになる。

 では、なにを見るのか。

 現実を見るのだ。

 現実のもっとも具体的な、身近な例として、自分の身体に今、起こっていることを見る。自分のからだが今、どんな状態なのか、そこにどんな変化が起こっているのか、観察するのだ。

 そのために、からだを小さなブロックに分けて、それぞれの小さな部分で何が起こっているのか、順番に観察していく。鼻の下の小さな三角形に意識を集中したのは、その練習だったのだ。

 ぼくがそれまで話を聞いていたヴィパッサナ瞑想は、自分に起こっていることを観察するところでは同じなのだが、その対象は心の動きも含まれていた。雑念がわいてきてもそれを押さえつけるのではなく、観察し、また呼吸に戻る。

 でもゴエンカさんのヴィパッサナ瞑想は違う。いろんな感情がわいてきても、無視しろという。呼吸に戻れとも言わない。ただただ、感覚を順番に観察していくだけだ。

 しかし、からだを小さな部分にわけてそこで起こっていることを観察するなんてことができるのだろうか。

頭の上をノミが歩く。

「まず、頭のてっぺんから始めなさい」

 ゴエンカさんの声にうながされて、半信半疑で意識を頭の頂上に持っていく。すると、感じる。なにかノミみたいなちいさな動物が、細い足で歩き回っているような感じがする。

 頭のてっぺんの次は、後頭部。9カ所に分けて、順番に見ていく。ところどころ、感じないところもある。でもそこも、しばらく意識を置いておくと、ぼーっとするような感じが分かってくる。額の部分は、すごく敏感だ。眉、目、鼻、頬も感じる。耳はちょっと難しいのだが、しばらくすると耳全体がぼーっとするように感じる。

 さらに意識を降ろしていくと、よく感じる部分と、あまり感じない部分が出てくる。

 この感覚はなんなのだろうか。ゴエンカさんの説明では、無意識のなかに閉じこめられたサンカーラ(過去の行いの結果)が浮かび上がってくるのだという。精神分析的に言えば、無意識下に抑圧したトラウマ?が表面に現れると言うことだろうか。

 それほど大袈裟に考えなくても、ふだんは意識しないけれど、感覚器官としての皮膚はいろんなものを感じているということだろう。

 不思議だ。でも面白い。

 しかし、あんまりおもしろがっていてはいけない。ゴエンカさんは、自分のからだに何が起こっていても、ただそれを観察しなさいという。痛い部分があっても、嫌ってはいけない。気持ちのいい感覚があってもそれを求めてはいけない。なにがあっても、「無常である」「これも移り変わる」ということを知っていなければいけない。

「アニッチャー=無常」

 これがキーワードなのだ。

5日目 なにがあっても動かない。

 今日も朝4時30分からヴィパッサナ瞑想。朝一番は、なかなか集中できる。からだ全体を小さなパートに分けて感じていく。一時間のあいだに一往復半くらいするスピードだ。特によく感じるのは手のひらと指。指の一本一本がそこにあるというのを感じることができる。左手の小指が少し難しいが、これはふだんあまり使わない部分だからだろうか。

「あまり感じないときは一分くらいその部分にとどまって、また次に進みなさい」

 というのが、ゴエンカさんの教え。ぼく自身もどうやったら感じるのかいろいろ試してみたのだが、その部分を動かさないのだけれど、動かす寸前のように意識を持っていくと、感じてくることが分かった。

 朝の瞑想のあとはご飯。このころから、長い髪を後ろで束ねた男性が食事の量を減らし始めた。というより、ほとんど食べないのだ。

 8時から9時まではグループ瞑想だ。実は4日目くらいに、グループ瞑想のあいだはどんなことがあっても体を動かさないように、テープのゴエンカさんから強く言われていた。固い決意を持ってのぞむようにと言われた。ところがぼくにはそれができないのだ。

 もともとからだが固く、あぐらをかいて10分もすると、足がしびれ、膝が痛くなってくる。それでも20分は我慢できる。しかしそれが限界。

 体を動かさないように、というのは単に集中がとぎれるからだけではなく、この瞑想は体を動かさないことによって生じてくるさまざまな感覚を利用していくからである。つまり座っていて足が痛くなってきたら、その痛みを観察する。いろんな角度から、いろんな部分について、それぞれどんな痛みなのか、どれくらい痛いのか観察する。その事実の観察から気づきへと至る、という原理だ。だから痛みを途中で緩和してしまったらその観察も終わってしまうということになる。

 これはヴィパッサナ瞑想のひとつのポイントだ。それが、ぼくにはクリアできない。様々な思いが駆けめぐった。

「この瞑想はぼくには向いてないみたいだ」「まあ、もうちょっと練習して、足が慣れたらちゃんと座ればいいじゃないか」「ブッダは苦行も快楽主義も捨てて中道を発見したというけど、はっきり言ってこれは苦行です!」

 そんなことを考えつつ三回くらい足を組み替えた頃、瞑想は終わるのだ。

 グループ瞑想の終わりにはゴエンカさんのチャンティング(詠唱)があったあとに、「ババット・サッバ・マンゲレンBhabatu sabba mangalan」

 と三回唱える。

「生きとし生けるものは幸いであれ」

 と言う意味だ。

 それにたいしてぼくたちは、その言葉にほんとうにうなづけるときに、

「サドゥー」

 と三回答える。

「おっしゃるとおりです」

 という同意の表明である。実際のところは、生きとし生けるものの幸いを祈ってというよりもぼくを痛みから解放してくれる言葉として、この言葉が出てくると感動するのであった。

(続く)



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