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「リチャード・ベイカー老師インタビュー」by藤田一照老師 後編

 1995年のティク・ナット・ハン師来日に同行したリチャード・ベイカー老師(1936ー)はアメリカの禅僧。鈴木俊隆老師の跡を継いでサンフランシスコ禅センターの二代目堂頭(Chief Abbot)となり、グリーン・ガルチ・ファームの創設などサンフランシスコ禅センターの拡大躍進させた人物でもある。

★ 老師のおっしゃる仏教の根源に帰るというのは、菩提達磨の教えにもどるということでしょうか。それともティク・ナット・ハン師のように、釈尊の根本の教えにもどるということもふくんでいるのでしょうか。

老師 ちょっと考えさせてくれないか……。そうだね、仏教というのは、どの一点をとってもそれを完璧に理解すれば、それ以外の部分も理解できる。マインドフルネスをもって深く見ることを実践すれば、ほかの教えも達成できるんだ。五薀(色受想行識という人間存在の五つの要素)について深く勉強し実践すれば、他の教説も理解できる。鈴木老師は禅を学ぶに際して、そのことを強調しました。

 私が日本に来たとき、ある寺で一年ほど勉強し、臨済宗の先生の多い京都の大徳寺へ移り2年半勉強しました。次に永平寺で2、3ヵ月過ごしました。鈴木老師は私がどこで学びたいというと、強力に後押ししてくれました。老師は真言宗も学べ、アビダルマも学べといいました。私はそうしました。いろんな人たちと修行しましたが、法脈についても固く信じています。だから私にとって、道元はイコール鈴木老師。禅においては同じことです。

 日本で修行しながら、私のなかにはたくさんの種がまかれました。ときがくればそれは開花します。私はそれを「冬の枝」と呼んでいる。冬の枝には花はない。死んでいるようにみえるかもしれない。でも実際には春がくれば、花が開く。鈴木老師はそういう存在です。日本では彼は大勢のお坊さんのうちのひとりだった。でもアメリカに来て、花開いた。鈴木老師は禅は宗教ではない、という。禅が若い人たちのためだけのものだったら、それは軍隊の訓練と同じだ。だから接心のスケジュールを年寄りや体の弱い人でもできるようにアレンジしました。厳しいスケジュールをつくったほうが、人はたくさん来るものです(笑)。

★ う〜ん(笑)。

老師 でもそういうのは、長くは続かない。私はみんなに、ごくあたりまえの日常的な行為として、道場に来てほしかった。接心中毒ではなく、ね。だから坐禅の時間は短くした。もちろん長く座りたい人には、そうできるような環境をつくった。逆に77歳の婦人でも、坐ることができるように、ね。ニューヨークで「セイブ・ザ・チルドレン」の運動をしている彼女には坐禅のポイントを教え、椅子に坐ってもいいですよ、と言ったんだ。彼女は「ノー」と言ったけどね。

「形の大切さに気づく」

老師 こんなふうに考えていくと、君は形のことを言ったよね。西洋ではヨーガの文化が理解されていないけれど、それはすごく重要なことだと思う。日本でそのことをあまりに軽視している。ひとつ例を話そうか。鈴木老師がアメリカに来たとき、なにが一番気になりますか?と誰かが聞いた。老師は「みんな、なにかをするときに、片手でする」と答えた。もしも私がコップを両手で渡したら、それは単にコップを渡したのではなく、私自身を渡すことになる。このことが理解されていない。

 日本のコップ(茶碗)は把手がない。それは日本人が間抜けだから把手の作り方を知らなかったわけじゃないよね。把手のないコップを持ち上げるには、両手で持たなければならない。真言宗のムドラーを習っているかな。コップを手にとって、口許にもっていき、お腹のところにもどす。このそれぞれの動きは、チャクラと連動している。これはみんなが理解していないけれど、実際に起こっていることなんだ。そのこころを日本人は失っていると思う。これは中国まで逆上ることができるとても古い瞑想の姿勢だ。日本の文化、たとえば建築や着物などは瞑想の姿勢に基づいている。日本人がそれを失ってしまったら、とても深いなにかを失うことになってしまう。

 私は道元と同じように応量器の練習を大事にしているのだけど、お碗を持ったり布を開いたりすることはヨーガの視点からすれば、すべてからだと深い関係があるんだ。このような形は、西洋ではとても重要なんだ。タイ(ティク・ナット・ハン師のこと ベトナム語で先生の意)を見てごらん。部屋に入ってくる。そして立ち止まって、部屋の雰囲気を感じる。これは基本的なダルマ・プラクティスなんだ。ダルマという言葉は、ものごとのありのまま、という意味だから。私が坐るときは、立ち止まり、そして、坐る。このいちいちがダルマなんだ。何かを持ち上げるときは、それを感じて、持ち上げる。これは道元の教えそのものだし、感覚におけるダルマ・プラクティスでもある。私はこういう細かいことを強調する。でも入口として最も強調するのは応量器の練習なんです。 ヨーロッパとアメリカの二ケ所にセットを置いています。

藤田 みなさんは道元が示すとおりに、日本の禅の道場と同じような仕方でご飯を食べているんですね。

老師 そう、私が鈴木老師から学び、永平寺から学んだとおりにね。いつかは応量器の練習に関する本を書きたいと思っている。なぜなら日本の僧たちもこのことを忘れているから。彼らはそれは規則だと思っている。その深いところを理解しているのはほんの一握りだろ? でも深いところを理解していなくても、それをやっているのは確かなんだけどね。

 ひとつ思い出したことがある。アメリカ・インディアンのシャーマンの生き残りを知っているんだけど、彼のもとで勉強する若い連中はみんな人類学を通して理解しようとする。インディアンの文化や宗教を勉強するけれど、そのうち飽きてきて、なにかほかのことを始めてしまう。しかし伝統的な文化においては、若者はなにについてトレーニングされているのかさえ知らないけれど、トレーニング全体を獲得する。そしてあるきっかけで、理解が生まれる。だから説明なしに教えるのは利点がある。鈴木老師が教えてくれたことのなかで、まったく理解できなかった部分もある。でも、15年、20年たって、ああそうか、と気がつくこともあるんだ……。ちょっと複雑すぎるかな。

藤田 いえいえ。

★ 面白いですよ。

「身体的な自由と精神の自由」

★ 昨日の講話のなかで、アメリカの自由は分離した自由と言われましたが、日本の場合は、そういう自由がないことが問題だと思うのです。

老師 日本の人々のほうが、「精神的な自由」はあると思います。ただ「身体的な自由」はない。自由に引っ越ししたり、職を変えたりという自由。だから一番いいのは、日本で生まれて「精神的な自由」を獲得して、アメリカに渡り、「身体的な自由」を得ることじゃないかな。

★ 「精神的な自由」というのは具体的に言うとどういうことですか。

老師 六十年代に最初に日本に来たとき、街にあふれる広告や漫画を見て、みんなLSDをやっているんじゃないかと思いました。オープンなんです。アメリカでは近所のひとと違う考えを持ったら、自分は気が狂ったんじゃないかと思ってしまう。アメリカでは別れてある自由はあるけれど、異なっている自由はない。民主主義の国では、軍隊が人々をコントロールしないかわりに、個人が自分の心をコントロールしなければならない。日本では人間関係のなかでのコントロールがたくさんあります。家族のなかや、会社でも。永平寺にいたとき分かったのは、日本の社会では、先輩が後輩を支配している。後輩はそのまた後輩を支配する。それが統合されてシステムになっている。アメリカでは、そういうシステムがない。みんな平等でボスだけが支配しているんです。

藤田 日本仏教がアメリカではじゅうぶんに役に立たないのは、そのような土壌の違いが背景にあるからということですか。

老師 それもあるけれど、日本仏教は文化仏教であって、実践仏教ではない、ということのほうが大きいと思う。日本においては、ひとびとはまず、「日本人」である。仏教徒だったり神道の氏子だったりするのは、二番目なんです。「まず仏教徒」というひとはとても少ない。また老師たちのなかでも、日本文化の外でも光明を得たひととして通用するひとはとても少ない。山田無文老師や鈴木老師はその数少ないうちのひとりです。あるひとはとても自由で、喜びに満ち、くつろぎを感じて、自分自身を知っている。日本の文化のなかでは彼らはとても落ちついています。でも彼らをアメリカに連れていくと、どうしていいか分からなくなってしまう。でも無文老師や鈴木老師はアラスカに行ってもドイツに行っても、自由を失わないのです。

藤田 彼らの違いはどこからくるのでしょう。実践の方法でしょうか。光明のレベルなのでしょうか。

老師 いろいろな要因があるでしょうが、彼らのヴィジョンの大きさによるでしょうね。ヴィジョンが深ければ、光明も深い。ティク・ナット・ハンはとても大きなヴィジョンを持っているから、日本に来ても韓国に行っても通用する。タイを見て、ヴェトナム人がいる、とは思わないでしょう。ブッダがいる、と思うでしょう。でもすべてのヴェトナムのお坊さんがそうだとは言えない。

★ 老師のヴィジョンはどうなのですか?

老師 とても小さい(笑)。残念ながら。

「日本に寺を作りたい」

★ 今後もタイと一緒に活動をするのですか。

老師 分かりません。以前、プラムヴィレッジに私の庵を、サンフランシスコのタサハラ禅堂にタイの庵を作って一緒に修行しようと計画したこともあるけど、でもたくさんのことが起こって実現できなかったんです。でも今回は、タイに一緒に来てくれと頼まれたので、来ただけ。特別な理由はありません。I don't think about the future.

藤田 タイは日本に一緒に来てくれと頼んだのですか。

老師 いや、全行程に参加してほしいということだった。台湾から、ね。でも私は安居の途中だった。そこで安居を終え、接心を終え、メキシコ人の女性への嗣法を終え、二日後にここに来たんだ。

★ ベーカー老師は特別なヴィジョンを持って来日したわけではないかもしれませんが、ぼくらにとってはとても大きな意味があると思うんです。ベーカー老師の禅をもっと日本に紹介してくれる予定はないんですか。

老師 誰かが招待してくれれば、来ることが出来るかもしれません。以前、山田無文老師が私に、日本にいる西洋人が坐禅できるようなセンターをつくってくれと言いました。でもそのときはサンフランシスコで忙しすぎたんです。その後77年か8年ごろ、別の寺を見に来たことがあります。でもそこは古すぎて、修繕している時間がなかった。でも、日本にお寺をつくりたかったのは事実です。

藤田 西洋人のためのお寺ということですか?

老師 みんなのために、ね。でも今は半年はヨーロッパ、半年は自分のコロラドの寺にいて、時間がないんです。でも招待されれば来るでしょう。私は日本が大好きです。ここは「ワタシノシンノウチデス。シンノクニデス」

藤田 シンというのは心ということ?

老師 そうです。心の国です。日本にいるのが一番楽だよ。でも、私の日本語はなかなかうまくならないけどね。

★ 老師のところには日本人の生徒さんはいるのですか?

老師 ええ、小田まゆみとか、彼女は長いこと私の弟子でしたし、いい友だちです。70年代には何人かの日本人生徒と先生もいたのです。ヨーロッパには韓国人や中国人の生徒はいますが、日本人はいませんね。鈴木老師は日本人の弟子を持つように、と言っていました。「それは円を完結させる」と。

★ 日本からアメリカに渡った禅が、また日本へ帰るという、まさにその意味ですね。

「アメリカの禅センター」

★ ところでアメリカには禅センターというのはいくつくらいあるのですか。

老師 何万人ものひとが禅をやっていますが、ちゃんと先生もいるところとなると……。

藤田 数えましょうよ。

老師 オーケー。まず、君のところだろ。

藤田 ノー、ノー。私のところは小さすぎて数に入りませんよ。禅マウンテンでしょ。大菩薩禅堂……。

老師 禅センター・オブ・ロサンゼルスの前角老師、ロスの佐々木老師、サンフランシスコ禅センター、それからミネアポリス、ロチェスター……。大きいのは8つか10くらいかなあ。小さいグループはたくさんあるけどね。でも、君のグループは数えたいな。小さいけど、ちゃんとした先生がいて、生徒がいるから。

藤田 いやいや、お恥ずかしい。大小いろんなレベルのセンターがあるんですよね。

老師 私がいたサンフランシスコ禅センターは大きいよ。メンバーが12000人はいたから。働いているのは200人くらい。独参の生徒が400人はいたよ。

藤田 街のセンタだけではなく、農園のグリーンガルチや山の中のタサハラもありましすからね。

★ 老師が禅と出会ったのは何年くらい前のことですか。

老師 初めて禅に興味を持って、本を読んだりしたのはまだハーバードにいたころだから……56年か57年かな。鈴木老師の下で学びはじめたのは1961年だから、もう35年になる。

藤田 ハーバードではなにを専攻していたのですか。

老師 ヨーロッパの歴史、それからアジアの歴史、それから、建築学。それからカリフォルニア大学バークレイ校では大学院で仏教を学びました。

藤田 「ゼン・イン・アメリカ」という本の一章はベイカー老師のことをとりあげていますよね。

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「鈴木俊隆老師が教えてくれたこと」

★ 老師が「これが仏教だ」と、目を開かれたのは、どういう体験ですか。

老師 ……それが起こるのを待っているんですよ(笑)。

藤田 いいですねえ(笑)。老師のおっしゃることは表現がとてもユニークですよね。老師は仏教を、自分の言葉で表現しようとしているんですね。

老師 そうじゃなかったら、誰の言葉を使うというんだい?

藤田 ええ、でも、ことさらに難解な仏教用語を好んで使いたがるひともいますよね。チベット仏教のゲシェーのなかには、膨大な経典を丸暗記しているコンピューターのようなひともいます。

老師 そうだね。

藤田 ある問いに関してはいつも同じオーソドックスな公式見解のような答え。それはいいけど、そういうのは禅だと「借り物の言葉ではなくて、自分だけの言葉で言ってみろ」と怒られちゃう……。

老師 私が決めているのは、体験したことや実践したことだけを教えるということ。これは禅の教師が絶対に守らなければならないことだ。だから私はサンスクリットや日本語で勉強しても、それが自分の言葉として内側から生まれてこないうちは、教えないようにしています。私はハーバードで哲学も勉強しました。それは確かに面白い。でも鈴木老師と会ったとき、老師は自分の言葉とイコールだった。そして、光明(enlightenment=さとり)を得たひとを見たと思った。

 でも私は、光明ってなんだか知らない。スモーキー・ロビンソンの歌だよ。黒人の歌手でね。「これが話に聞いていた愛だか分からない。でもこれが愛に違いない」。鈴木老師を見て、これが光明に違いないと思った。これが私が思ったひとつのことです。

 もうひとつ分かったのは、光明がすべてではないということ。光明というのは、それがあれば仏教を自由に教えられるような魔法の体験じゃない。それを成熟させなくちゃいけない。だから私が見たのは単なる老師の光明だけじゃなくて、このひとは技術と方法を持っているひとだということ。それから三つめは……。

藤田 ちょ、ちょっと待ってください。ずいぶんたくさんのものを見たんですね……。では、三つ目は?

老師 私は日本人を見た。日本文化と日本仏教を見た。そこで私は老師の光明を学ぶこと、老師の技術を学ぶこと、日本というものについて学ぶことを決心した。だから私が日本に来たとき、仏教についてはそれほど学ぼうというつもりじゃなかった。なぜなら仏教は鈴木老師から学んでいたから。私が日本に来たのは日本を勉強するため、彼の日本人性(Japaneseness)について学ぶためなんだ。私は仏教文化と日本文化の違いを知りたかった。だからたとえばこの茶碗に把手が無いのは仏教の文化から来ている。正座も仏教の文化であって、日本文化ではない。足袋を履くのは日本文化。だから私は足袋は履かない(笑)。そういうことさ。

 私は社会人類学者みたいになって日本文化と西洋文化を研究した。だから私の教えは文化・修行・光明という三つのものに深くかかわっている。

 簡単な例をあげよう。私がここにいて君がそこにいる。ふたりのあいだには空間がある。西洋では空間がふたりを分けているというふうに考える。でも考えようによっては、空間がふたりをつないでいるとも言える。でも西洋ではそのことがなかなか理解されない。そのへんからなんとかしなくちゃと思っているんだ。おっと時間だな。このへんでいいかな。

藤田 どうもありがとうございました。

老師 どういたしまして。

★ いやあ、どうもありがとうございました。

老師 I'm glad to see you.(藤田さんに)通訳、どうもありがとう。素晴らしい通訳だったよ。

藤田 いやあ、不思議ですね。今日は80パーセント以上は理解できて訳せたのに、なぜ昨日はだめだったんだろう。

老師 きっと聞きなれない説にびっくりしたからだろ。あらかじめ10分でも話していたらよかったねえ。(終わり)

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鈴木俊隆老師の伝記『まがったきゅうり』(サンガ)は藤田一照さんが監訳。


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