パーフェクト寄生髭

梃子の原理主義者

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終わり続けてゆくセカイ

侵略の発生と破壊が提示される冒頭を除いた、映画の途中つまりは現代パートまで、原作序盤のキャッチーさやポップさを失ったまま、原作場面再現VTRとして進み、コンテ演出による確かさのようなものもあまり無く、絵が再現されてく。 おんたんというトリックスターは台詞の吹き出し込みでアクションする漫画的なキャラだけど、あのちゃんの声はそれを表現できていないと思った。 ロングショットが殆ど無く、フレームも大体キャラクターから外れず、場が示されず、カットがアクションしていかない。 ほぼ説

    • すずめノとじまり

      アニメで語るために、アニメの記憶、アニメの文体のようなものを引用し、援用し、繋げていく。これは新しいことではない、だからこそ、物語る事が出来た。 風景または心象風景と"なってしまった"日本の商業アニメが前提としてあり、そのコラージュにより、語りは獲得された。 手法としては個人アニメーションと近い。 しかし、選択されたイメージ、作品は日本のアニメ史に留まり、留まることで語りは語りとして確かさを持つ。 イメージの更新などは無く、既知のものであるイメージまたは記憶を選択し、

      • 改装─回想─階層の輪廻(Re:cycle)

        まあ、駄洒落です。 たいしたことは書けません。 ただ少しだけ、思ったことを記して置こうかなと。 この作品が今を切り取っているのか、は解らない。 撮影された街の断片に描かれたキャラクターが画として成立するギリギリの時間と色調を踏まえ、存在させられていた新規カットがありました。 しかし、それが現在なのかは示されず、幻想のように提示されていたと感じました。 空間は与えられていても、それが何時なのかは解らず、何時かの場所に「在った」と言う風に切り取られたモノとして示されたのか

        • 祭の対岸に立つ、二人だけに贈られる花束。

          選ばれた映画の記憶、その記憶による世界の構築。それら、ある種の重さを使い、二人の世界を支え、嘘を嘘として描き、積み重ね、切実さへと至る。繋がりを奪われた者が、色彩を奪われた者が、広い場所に置かれ、対岸を眺める。 そして、火花という色彩を獲得する。 ただただ素晴らしいなと思いました。 映画史的な目配せや、ジャンル的な約束事を踏まえつつ、それらを使い、今現在の物語として軽やかに着地してみせる。 歴史、とはいえ、自分に読み取れたのは黒沢清や青山真治などが2000年代に描いた

        終わり続けてゆくセカイ

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        • 考察
          5本
        • 10本
        • アニメ≠オンガク≠カンケイ
          9本

        記事

          閃光の弱さ、または潜航の暗さ。

          重力。 作画、デザイン、ルック、レイアウト、カメラ、それらが構築し拘束する事で達成する"重さ"。 主に、リアリズムへと奉仕するディテールが徹底されることで、其処へ映されるキャラクターが存在すると認識し、緊張を与える。 暴力、破壊、色気。 場面の強さは目を見張るものだった。 光の与えかたも常にリアリズムを纏い、暗く、本当らしさを意図していたと思う。 思う、が。 それは逃げているということでもある。 本当らしさに執着し、ディテールを執拗に詰めていくが、それはドラマ

          閃光の弱さ、または潜航の暗さ。

          隙間の無い場所

          好きか嫌いかで言えば好きで嫌いなんだけど散歩というか知らない場所を漂うことで何処にも居たくないという欲望と何処にでも居たいという欲望が充たされて行きそれにより自身が何者でもなく何かモノのようなモノとしてなにもかもとスレ違い続ける時間が積み重なっていくようで崩され続ける運動のような感覚だけが輪郭を持ち意識と場所が拮抗して境界線に火花が光り街の灯りと溶け合い私またはわたしもしくはワタシが曖昧かつ明晰に充足それはチャクラが四肢に行き渡るイメージと重なり現実へ虚構が染み渡り"のような

          オリキャラでごさいます

          オリキャラでごさいます

          +3

          なんか批判ばかりなので画像加工アプリで遊んだモノでも幾つか

          なんか批判ばかりなので画像加工アプリで遊んだモノでも幾つか

          +3

          人種差別=迫害というイメージから、単なる、言葉通りの意味から使われる「差別」そのものにまで悪のイメージを持ち、それこそ棍棒として振り回す。ワイドショー的に編集されたイメージが、陰謀論的な構図というカタパルトに乗り、誇大妄想という大空へと飛び立つ

          人種差別=迫害というイメージから、単なる、言葉通りの意味から使われる「差別」そのものにまで悪のイメージを持ち、それこそ棍棒として振り回す。ワイドショー的に編集されたイメージが、陰謀論的な構図というカタパルトに乗り、誇大妄想という大空へと飛び立つ

          差別はいけない、というのも言葉が足りず内心の自由にまで範囲が及ぶから、いや無理やろがアホかと。差別から攻撃するのはいけない、というのもあまり正しくはなく、何にせよ暴力はいかんでしょとするしかない。差別を禁止するなど不可能だし、人種等による性格行動の傾向は無視できないのだから

          差別はいけない、というのも言葉が足りず内心の自由にまで範囲が及ぶから、いや無理やろがアホかと。差別から攻撃するのはいけない、というのもあまり正しくはなく、何にせよ暴力はいかんでしょとするしかない。差別を禁止するなど不可能だし、人種等による性格行動の傾向は無視できないのだから

          キモいものは、キモい。差別したいものは、差別したい。それはそうだ、仕方無い。しかし、差別であるかどうかよりも、お前がやっているのはSNSという開かれた場所での、特定の趣味趣向または病気の人間への迫害で、それは人種差別と何ら変わらない行為だ。という終りきった話がループしている。

          キモいものは、キモい。差別したいものは、差別したい。それはそうだ、仕方無い。しかし、差別であるかどうかよりも、お前がやっているのはSNSという開かれた場所での、特定の趣味趣向または病気の人間への迫害で、それは人種差別と何ら変わらない行為だ。という終りきった話がループしている。

          『反逆の神話』を読んでなお、カウンターカルチャーを信仰するドン・キホーテとして在り続けられる理由は何だろうか

          『反逆の神話』を読んでなお、カウンターカルチャーを信仰するドン・キホーテとして在り続けられる理由は何だろうか

          『反逆の神話』を読み直してるんだけど、引用される「カウンターカルチャーとは大衆文化の事でしかなく、大衆文化とはモノを売って金を稼ぐ手っ取り早い手段にすぎないのだ」とか、デトロイトのゲットーの印象は暴動の結果であり原因ではなかった、なんて件でゲラゲラ笑ってる

          『反逆の神話』を読み直してるんだけど、引用される「カウンターカルチャーとは大衆文化の事でしかなく、大衆文化とはモノを売って金を稼ぐ手っ取り早い手段にすぎないのだ」とか、デトロイトのゲットーの印象は暴動の結果であり原因ではなかった、なんて件でゲラゲラ笑ってる

          何故、熱狂するのかと言えば、そりゃSNSのスピードと距離の近さによるものだ。それはメディアの機能で、人がその速度と量、そして反復と差異つまりはリズム/ビートにより加速する。小説や演説なんかもそうだ。加速させる。

          何故、熱狂するのかと言えば、そりゃSNSのスピードと距離の近さによるものだ。それはメディアの機能で、人がその速度と量、そして反復と差異つまりはリズム/ビートにより加速する。小説や演説なんかもそうだ。加速させる。

          ある朝、グレゴール・ザムザが目覚めると

          ある朝、グレゴール・ザムザが目覚めると