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「東京通過①」(須藤蓮)~【帰ってきた!「逆光の乱反射」】

逆光の乱反射』は映画『逆光』の配給活動が巻き起こす波紋をレポートする、ドキュメント連載企画です。広島在住のライター・小説家の清水浩司が不定期に書いていきます。

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半年ぶりに話す須藤蓮は、歯切れが悪かった。

どうにもこうにもまだるっこしいものがあった。

あの調子乗りで、不遜な自信家で、人の懐にぐいぐい入っていく人たらしで、小動物のような素早い頭の回転で浮世を渡ってきたイケメンがグチグチ言葉をこねている。

しかしそれは悪い印象ではない。当たるべくして当たった壁に、絵に描いたように頭を抱えている姿も須藤蓮であり、彼のピュアネスを表している。うーん、かわいいやっちゃのぅ。

一体どうして彼はこんなに歯切れが悪いのか? それが悪くない『逆光』ストーリーの第2章のように思えるのはなぜなのか?……

あ、ご報告が遅れました。広島での公開模様を追ったドキュメント「逆光の乱反射」、終わったはずですが帰ってきました! どうにもこうにも気になったので、東京公開が終わったタイミングでリモートで彼らの現状について聞いてみました。

まずは真夏の広島公開が終わった後の『逆光』チームの動きを整理してみよう。あれから半年間の主な動きは、以下の通り。

■『逆光』東京公開
 ・渋谷ユーロスペース 12月18日~1月21日(4週の予定が5週に拡大)
 ・アップリンク吉祥寺 1月7日~2月17日(2週の予定が6週に拡大)
■次回作『ブルーロンド』準備・撮影・編集
■須藤蓮、ドラマ『おいハンサム!!』にハンサム出演

相変わらず制作に出演に配給に、めちゃくちゃ忙しそうである。よくこんなにマルチタスクできるなぁ、と感心してしまう。

いや……ぶっちゃけ切り替えは苦手な方だと気付きましたね。本当は『逆光』の東京公開をしながら『ブルーロンド』の編集を進めようと思ったけど、そんな甘いワケもなく。どっちも今の自分じゃ太刀打ちできないくらいの大物で。なのでひとまず『ブルーロンド』の編集は置いといて、『逆光』の東京公開に向き合った3ヶ月間でした。

ちなみに取材日は2月28日。つまり、ここで言う「『逆光』の東京公開に向き合った3ヶ月間」とは昨年12月~2月ということになる。

さて、その中身はどうだったのか?

やはり東京ってホームというか僕にとって地元ですからね……それもあって東京公開で何をやればいいか最初はわからなかったんです。僕らは「尾道から東京に向かって公開していく」という既存とは逆の試みをすることを目標に頑張ってきたけど、いざ東京に辿り着くとこの場所で何をするのかがわからなくなって……最初はボヤボヤしてましたね
いや、結果的にはよかったんです! 集客とかそこで起きたことは素晴らしくて。ただ、俺自身が……なんていうか、自分と戦ってました。アウェイ戦で新天地に飛び込むって、守りがないじゃないですか。誰も自分のことを知らないから、怯える必要がない強さがあるというか。だけど東京は知ってる人が観に来るし、そこに甘えもあったかもしれないし……最大限の情熱はあったけど、ある種の難しさはありました。そこを乗り越えるというか、自分の中に起きているエラーと徹底的に向き合い続けて、何がこの先に必要なのか、何が自分を突き動かしてくれるのか……ラクではないけどそこに向き合う、なくてはならない時間をすごさせてもらったなとは思うんですけど……

ああ、歯切れ悪っ! 須藤蓮ってこんな歯切れの悪い人だったっけ?

その歯切れの悪さを読み解くキーワードは彼の発言にも出てきた「ホーム」「アウェイ」という部分に集約される。

「比較」とか「競争」とか……自分には以前から戦ってる価値観があって、それを乗り越えようと試み続けてるんですけど、東京公開の間はまたその魔の手と戦ってたんです。広島公開の時以上に数字から目が離せなくなってたし、成功にしがみついてる部分もあったし。なんか……自分が本当に大切にしたいものと、それを継続するためにある程度は成功しないといけないというプレッシャー……その2つのせめぎ合いの間で戦ってた気がします

広島公開の最終盤、須藤と話していて気になる瞬間があった。

「あー、東京に帰るのイヤだなぁ……」

彼は心底うんざりした様子でそうため息をついていた。それは半分は広島に暮らす私たちに対するリップサービスだと思ったが、半分は「まあ、そうだろうな」と感じられた。

自分のことを誰も知らない街で、イチから周囲と関係性を作り、ムーブメントを育てていく。それは非常にワクワクした冒険であるし、人生の至福の経験でもあるだろう。

しかも舞台は真夏の尾道である。開放的で、ちょっとしおれた優しい街を、Tシャツ&短パンで闊歩する。まさにフリーダム。それは若者たちにとって文字通り、何物にも囚われない時間だったはずだ。

しかし、それはやはり非日常なのである。

日常(ホーム)があるからこその非日常(アウェイ)なのである。

同時に『逆光』はホーム・東京に対するアンチテーゼ的作品でもあった。「尾道から東京に向かって公開していく」という既存とは逆の試み。アンチ資本主義。アンチ東京中心主義。アンチ効率至上主義。アンチ現行のヒエラルキー。アンチ現行の勝ち組価値観……。

巷で流通する常識に反旗を翻した浪漫派のルネサンスが『逆光』だったわけだが、彼らは東京公開タイミングで一度背を向けたはずのホームと再び向き合うことになる。改めて目にするうんざりする現実、資本主義の総本山、そのルールに縛られていたかつての自分……。

それでも須藤はホームに帰らざるを得なかった。

やっぱり資本主義的なものに背を向け続けるだけじゃ変化は起こせないんで……その気持ちよくなさ、というか。「お金なんて稼げなくてもやりたいことをやればいい」「まっすぐぶつかって玉砕すればいい」って考え方はすごく好ましいけど、でもそれだけではダメで。きっとある意味成長だと思うんですけど、それを継続して変化を起こしていくためには……

東京に戻ったことで、旅先のフリーダムは簡単に消し飛んでしまった。さらに東京はホームである上に大票田。「ここが勝負」「ここで勝たなければいけない(=ヒットしなければならない)」というプレッシャーが須藤の上にのしかかった。

「東京ではすっごいお客さんが入らなきゃいけない」という考えがあったんです。最初は「東京は別に総本山じゃない」って言ってたはずなのに、結局は「総本山と戦う」みたいな心持ちで向かってるから、総本山的な結果に対する意識が強くなりすぎて……それくらい僕の中に「東京で勝たないと!」という意識が刷り込まれてたってことだと思うんです。東京は東京で一都市として捉えて、目の前で起きていることを楽しめばよかったのに、東京ということに完全に囚われていたんです。

須藤と行動を共にする相方・永長優樹もこう語る。

広島でやった「僕らが一番楽しみながら、楽しく観客に届ける」というのを東京でも目指してたんだけど、いつの間にか劇場の方と「何人くらい入ったらすごいんですか?」みたいな話になってて。僕らの配給の試みは「後に続いてもらうためのロールモデルになりたい」ってことで、「それを成功させるためには東京でめちゃくちゃ当たらないといけない」って最初から思ってたんです。でもそれって結局「東京で成功してシャワー効果的に地方に届ける」という映画業界的な常識に戻ってたというか…… (永長)

勝つことが正義。負けたら終わり。とにかく大事なのは結果と数字。それが出せないヤツは何を言っても負け犬の遠吠え……

楽しいか、楽しくないかではなく、勝つか、負けるか。

あれほど忌み嫌ってきた「比較」と「競争」がまた心の中を満たしはじめる。不安と恐怖に追い詰められていく。

そして1月8日、須藤蓮は限界を迎える。心が壊れる。

そう、いわゆる「アップリンク・ショック」である――と書いてみるが、一体何がいわゆるなのかは私にもまだわからない。 (いましばらくつづく)


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