甘い痛み


出社して数時間後、ちくっとした痛みが
指にまとわりついていることに気づいた。
朝起きた時には痛くなかったから、傷はなかったはず。

左手を見ると人差し指の第二関節に
紙で切ったような切り傷があった。

いつ切ったのだろう。

よく紙を扱うのでそんなに珍しいことではないのだが
切ったら切ったで鬱陶しく感じる。

淡い痛みがずきずきと主張してくるのを
尻目にわたしはカタカタとキーボードを叩く。

メッセージチャットで用件を伝えると
人差し指を見る。

いたい。

切り傷ってこんなに
弱く甘くまとわりついてくるものだったっけ。

なぜか異様に寂しくなって
切り傷を撫でた。

血が少し滲んだ指は
何事もないように動く。


絆創膏をするほどではないが、水に触れると痛くしみる。

なんだかこの痛みに懐かしさを感じ、その正体がすぐ分かってしまった自分もどうかと思う。

この痛みは、恋に似ている。

それと同時に、

もう恋なんてもうどのくらいしていないのだろう。と思った。


最後に恋をしたのはいつだっただろう。

多分あれは、2年前の夏だったか。

あの頃の気持ちを少し思い出し、苦笑してしまった。

あの頃わたしは、無敵だった。

自分で思えてしまうくらいだから相当、浮かれた勘違いの素直な甘ったれた人間だったのだ。

若さゆえの思い切りや勢い、すぐに人を信じてしまう甘さ、こちらがきちんとしていれば、相手もきちんとしてくれるという、それが常識だと思っていた危うい素直さ。


それゆえに、ひどいこともされたし、逆にひどいこともした。

大人になると、人は疑り深くなってしまう。この人のこの態度には裏があるのではないか、とか利用されているのではないかとか。


例えば、「好きだって言ってくれたのに、付き合えないという」「あんなのことまでしたのに、別れて欲しいという」そんなことの連続だ。

独りよがりにならないように人は一人で生きていけないのなら、誰かと生きる事はこんなにも難しい事なのか。

どれだけ長い同棲生活をしても、相手の心が100%読めることなんてことと同じように、上手く生きようとすればするだけ気を使いすぎることが増えていき、それはやがてすれ違いになっていく。

少しの嘘が、やがて大きな黙々とした塊となって、気づかぬうちにそれに飲み込まれ、取り返しがつかないことになっていたとしても。


気づいた頃には、いつも、一人だ。



名前を呼ばれ、顔をあげると隣の席の後輩が「お昼一緒にいきましょう」と声をかけてくれていた。


わたしは「うん」と返事をして、財布を鞄から取り出した。



それでも、人は人と、誰かと生きていきたいと思う生き物なのだろう。

少なくともわたしはそうだ。

ひどいことをされても、忘れたフリをして許してしまう。

きっとそれは自分の弱さであり、強さだ。



宇宙規模で考えれば自分の悩んでいることなんて、ちっぽけなものだ。



わたしは食堂へと続く階段を降りながら、今日は何を食べるか考えることで頭をいっぱいにし始めていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?