理想
僕には理想の生き方がある。ごく抽象的ではあるが。「実感にのまれる」という生き方だ。
僕は、自分の感じ方が間違っている可能性や、全てのことは始めから決まっていて自分は単にそれをなぞっているという可能性を考えながら生きて来た。無論、それだからと言って、他人を無下にしたり、無気力に身を任せたり、人生を終わらせたりはしていない。こうして生きている以上、この世界(或いは僕の認識)のルールで生きていくために、僕は思考をしなければならない、この世が張りぼてである可能性を考えるのをやめてもよい。といった具合に生きている。
それでもやはり、一度そういう可能性を考えてしまうと、自分の肉体が自分のものではないような、仮想空間にいるような、そんな感を常に受けるものだ。演劇をしている感覚や、嘘をついている感覚が、いつもある。
最後に何かを本気で楽しいと思ったのはいつだろう。本気で悲しいと思ったのはいつだろう。腹立たしいと思ったのは?
僕は高校生の頃、そういうことを日頃考えた。他人より怒りを感じづらい性質で損をしていると感じるようになったからだ。そう考えてみると、怒られて悔しいとか悲しいとかの感情も、「悲劇のヒロインぶるな」というように叱られてから、メタ的なものになってしまっている。それから、楽しいという気持ちも、年々薄れる一方だし、自分の未来も大切だと思えない。これは人間としてどうなのだろうかと、日頃考えた。
それから僕は、胸の奥の小さな気持ちを増幅させる試みを始めた。
最初に大きく感じたのは悲しみだった。僕はいつもいつも悲しいと思った。何もないのに涙が出た。
次に増したのは恐怖だった。脳みそに帯を締められ、全身が緊張するような。僕はそれに度々支配された。突然怖くなって、呼吸の仕方も忘れて立ち尽くしたり、自転車を飛ばしてなにかからどこかに逃げたり。
それでも、僕はその試みが正しいと思った。自分で考えて妥協しても、後々損をしたり嫌な気持ちになったりする。感情を綺麗に捨て去れないなら、最初から嫌だと思えなければいけないと思った。
自転車を漕ぐ僕の意識が一瞬車道にずれてしまったことがある。「えっ、なんでなんで」と思いながら10メートルくらい走った。一瞬がとても長く感じた。やはり、僕がここにいるということは、まやかしでしかないと分かった。それでも、この世界で生きていくしかないんだということは分かっていた。同時に、内心、もう一度意識の座標がずれることを待ち望んでいたが、二度目はなかった。
僕は、この世界で、僕の(肉体や環境という実感の)中で、最大の快楽を味わって生きるんだと決めた(そのあと一回死のうと思ったけど)。喜びや楽しみを、僕が僕の中で直接感じるという快感だ。悲しみも(僕のくらいの軽さなら)一種の快楽だと思った。
人生全部どうでもいいなんて、僕は本当には思うことができないのに、他人の所為にして妥協して、汚れて損して悲しんで。その繰り返しだ。実際のところ、生まれてこの方、知的活動や創作活動については積極的であるが、未だ、社会について無気力で、自分を生きている実感のない生活を送っている。
例えば暴力を受けて泣き喚き、その拳の主に縋る。僕が僕の肉体の中で生きていることを強く感じる。あれほどの快楽が今の僕には他に無い。