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バックパッカーをしていたあの頃

 ヒンドゥスタン平野を東に向かって駆け抜ける特急列車。スリーパークラスという一番安い三段寝台の最上段のベッドで、盗まれないように天井の扇風機の上に靴を置き、天井にぶつからないようあぐらをかいて寝台に座っていた。向かいあっていたのは当時大学に通っていたお兄さんで、そのときにはつぎの4月から就職だったはずだ。そして僕は大学進学を控えた18歳だった。インドに旅立つ前、第一志望の大学に合格していたらメールを寄越してくれ、と親に言ったが、合格発表の日を過ぎてもメールは来なかった。入試がおわってすぐにインドへと飛び発ち、大学入学までの1か月半をインドとバングラデシュで過ごした。

 2014年のこと、もう10年前になろうとしていて、十年一昔ということばが身に染みてしまう。当時はバックパッカー旅行をしようみたいなブームになっていて、僕が大学生のときにピークを迎えた。円高で1ドルが100円を切っていたことや加え、LCCが次々と日本に就航しはじめて格安旅行が一般的になりつつあった。

 高校にラグビー部がなく、週に2回の練習しかなかったクラブチームに所属し時間を持て余していた僕は、その余った時間を勉強ではなく行ったことのない世界への想像に充てた。沢木耕太郎「深夜特急」に心を躍らせ、いつかはユーラシア大陸横断と夢見ていた。
 高校一年生のときから中国語を習っていたのでとにかく中国に行ってみたかったのが高校二年に入るまえの春休み。せっせと貯めたお金で北京から香港を目指したら、中国よりも旅そのものにハマってしまった。おカネはないのでバックパッカー旅行。いや、僕は(いまもそうだが)機内預け荷物を嫌がったので最低限の装備しか用意せず、バックパッカーよりも小ぶりなリュックサックを使っていた。さしずめリュックサッカーである。ここではバックパッカーでいいだろう。

 バックパッカーなんかしていると「インドに行くと価値観が変わりますか」とよく質問される。価値観が変わるとはなんでしょう、旅くらいで変わる価値観などあるのでしょうか、そんな話を冒頭の夜行列車でしていると「高校生に見えない」などと言われたものである。

 「中学生のときは高校生が大人に見えるけど高校生になってみると自分はあまりたいして大人でもなければ中学生は思っていたより子供に見えるし、高校生は大学生のことを大人だと思っているけど大学生になってみるとあまりたいして大人でもなければ高校生は思ったより子供に見えるし。いまから社会人になるけど、たぶん社会人になってみると思ったより大人じゃないなとか大学生って子供だなとか思うんだろうな」というのを大学卒業前の彼は語っていた。そして「君は高校生に見えない」と言われた。週2回とはいえラグビーをしていたのでがたいが大きかったのと、インドに行く時点で旅慣れていたのであまりに堂々としすぎていただけだと思うのだが、そう言われて謙遜せずに調子をよくしてしまうのが僕である。

 僕が旅先で、インドや東南アジアでよく出会ったのは、まず大学生たち。夜行列車で話していた彼もその歳だ。みな口を揃えて「社会人になる前にいちど長期で海外を旅行しておきたい」と言っていた。休学して半年から一年を旅に使うという人も多かった。卒業すると旅ができないという目論見はだいたい正しい。仕事をやめなければちょっとした旅行に使う時間を捻出するのも難しい。彼らの殆どは帰国後にまっとうな社会人をしていた。
 そして25~30代前半の「なんか仕事辞めてふらーっとしてみたかったんだよね」という人たち。転職が決まっていて次の職場までの1、2か月間、という人ももちろんいたが、仕事を辞めてなんかタイやインドに来ちゃいました、という人が多かった。フリーターをしながら半年サイクルくらいで日本と旅先を往復する人も少なくなかった。

 高校生の時の僕は大学生たちとは年齢が近かったが、旅先で仲良くなったのはだいたい後者のお兄さんお姉さんたちだった。彼らが年齢がうえで落ち着いていたからということかもしれないが、調子のいい僕をかわいがってくれたのはだいたい帰国しても行くアテがないという人たちだった。「何か違うな」と思いながら働き、あるときふと仕事を辞めてインドや東南アジアに向かうバックパッカーのお兄さんお姉さんたち。プログラマー、公務員、スポーツ選手、教員、建築士・・・。前にしていた仕事は様々だったが、身分がないからかみなどこか不安を抱えながらも自由そうで、時間もあるから旅をのんびり楽しんでいた。

 この記事を書いているのは誕生日の一日前で、僕はあした28歳になる。気が付けばあのとき出会ったお兄さんお姉さんたちと同じくらいの年齢になっていた。バックパッカーではないが僕は仕事を辞めて大学院に入り、東南アジア島嶼部の研究をしている。あの頃から素質があったのか、彼らが僕になにかおなじような匂いを感じていたのか。もちろん大学院とバックパッカー旅行は違うが、僕が東南アジア島嶼部に出会ったのはバックパッカー旅行をしていたからである。価値観はなにが変わったのかわからないが、自分の人生には影響を与えたのは間違いない。

 そして当時大学生の彼が予想したように、28になってもなにも変わらないなと感じる。あのときのお兄さんお姉さんたちはすごく大人に見えたが、自分が見ていたような大人になっていない気がする。たぶん18の頃となにも変わっていなくて、それでいて年齢だけは食ってしまった。でもそれが人生でしょ、というのを旅で学んだ気がする。なにか変わった価値観といえばそれだろうか。

 思ったよりも寒い冬のインドを走る寝台列車で凍えそうになりながら一晩を過ごし、朝のコルカタ・ハウラー駅で彼とはお別れした。どこかでの再会を誓ってもなかなか会うことはない。きっと彼はまっとうな32歳になっているはずだ。
 ハウラーからバスに乗り、堂々とバングラデシュの国境に向かって歩みを進めた僕はきっと自信満々だったのだと思う。バックパッカーをしていたあの頃に出会ったお兄さんお姉さんたちのように、ちょっとの不安とお金をもって、のんびりと旅を楽しむ28歳の大人になっているだろうか。

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