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卒業旅行はバングラデシュ

 大阪の高校生の卒業旅行の行先といえばディズニーランドが定番だろうか。早い段階で進路が決まった人なら鳥取に免許合宿というのもわりとメジャーで、合宿中に鳥取砂丘に遊びに行く。
 そんななかで僕が卒業旅行先に選んだのはインドとバングラデシュだった。インドならたまにいると思うのだが、バングラデシュに高校の卒業旅行で行ったことのあるのはおそらく日本で100人もいないだろう。
 計画では12月に進路が決まる予定だったのだが、なぜか第一志望の大学の入試で一次の筆記試験は通ったのに二次の面接試験で不合格になってしまった。
 そんなわけで入試は2月まで延びたのだが、幸いなことに高校の卒業式は1月だった。卒業式のあとに打ち上げで遊びまくった2日後の入試に合格するわけがなく、併願していた大学に入学することになるのだが、入試の3日後にニューデリーに向けて飛び立っていた。親には「合格したらメールくれ」と言ったが「立命館合格」メールはもちろん来なかったのである。


バングラデシュへ入国

 当初はインドだけ、もしくはインドとネパールに向かう予定で、ネパールは国境でビザを取れることを確認してから出発したのだが、冬のヒンドゥスタンが思った以上に寒くて高地のカトマンズは更に冷えるだろうとネパールは断念した。そこで気になっていたバングラデシュの出番である。ここに行く人はおそらくほとんどいないと思ってビザを取得した。

 思っていたよりも寒かった冬のヒンドゥスタン平野を東に進み、コルカタに着いたころには春物の上着だけでもじゅうぶん快適に過ごせるようになった。ベンガル地方の夏はものすごく過酷なのかもしれないが、春はむしろいいかんじだ。
 バングラデシュへは西ベンガルの中心コルカタのシアルダー駅から通勤電車に乗れば2時間ほどで国境の町に到着する。時間と距離を考えると大阪から米原、東京から宇都宮くらいか。歴史のなかでベンガルは分割され、東ベンガルはパキスタンになりそしてバングラデシュになった。西ベンガルとバングラデシュ、両者を繋ぐものはベンガル語とベンガルナショナリズムである。

バングラデシュ名物の船に乗ろう!

 こうして18歳の僕はバングラデシュに入国した。入国したはいいものの、この国は特に見どころがあるわけではない。最初に向かったのはクルナというバングラデシュ第三の都市である。この都市も例に漏れずとくに観光地があるわけではないのだが、バングラデシュでもっとも有名であろう乗り物がここから発着しているのだ。

独立戦争記念碑。数少ないクルナの観光名所のひとつ。

 バングラデシュは国土の殆どデルタ地帯で、ガンジス川が無数の支流となってベンガル湾に流れ込む。昔から水は人々を隔てるが、同時に道にもなった。いまでも船はバングラデシュに欠かせない主要な交通手段なのである。
 ここにはロケットスチーマーという英領時代から100年以上もベンガルの河川を行き来する趣のある外輪船が走っていて、2021年現在もあるそうだ。
 船に特別の関心があるわけではなかったが、せっかくバングラデシュに来たからとこの船に乗ることにした。古い交通機関は物珍しさよりも先に怖さがくるところもあるが、18歳の僕には怖いものはなかった。

バスに乗ろう!これはダッカの市バス。

 国境の町ベナポールからオンボロバスで勇んでクルナに乗り込んだはいいのだが、このときインドでの下痢が尾を引いていた。病み上がりである。観光客らしいことをしようという執念だけで船着き場に辿り着き「ロケットスチーマーに乗りたい」と言うと「冬は水量が下がってクルナまで船は来ない。バリシャルに行け」と窓口のおっさんに言われた。

 意志の弱い僕はロケットスチーマーに乗ることを一瞬で諦めた。いちおうバスターミナルでバリシャルに向かうバスを探してそれなりの本数があることも確認したのだが、体調も悪くきゅうに面倒くさくなってしまったので、クルナのホテルを一泊から三泊まで延ばした。鉄道駅に向かって三日後のダッカ行き夜行列車の券を確保した。

クルナをぶらぶら。優しいバングラデシュ人たち

 取り敢えずクルナの街を歩くことにした。観光地はまじでないのでただひたすらあてもなく歩くだけだ。
 バングラデシュの人口密度はとんでもなく、北海道ほどの面積に日本とおなじくらいの数の人が住んでいる。ただし南アジアの保守的な価値観もあってか、外で出歩いている女性は少ないほうだ。外国人観光客も多くないので東洋人がひとりでぶらぶらしているととても目立つことになる。

パチえもん

 チャイハネ(お茶屋)の前を歩いていると「おいそこの外国人、お茶しばいていけ!」と言われておごってくれたり、歳の近い(近かった)中学生たちが「クリケットしようぜ」といっしょに遊んでくれる。インドに比べて英語の普及率も高くなく、いまも当時もベンガル語はできないのだがなんとなくでも楽しいのである。
 これがインドなら突然「お茶飲んでいけ」とか言われたら睡眠薬を入れられてるんじゃないかとか、クリケットで遊んで行けと言われてカネをねだられたりとか(じっさいインドの田舎町でされた)なんかいろいろ心配しちゃうのだが、ことバングラデシュにかんしてはとくにそんな心配はしなくてよかった。

チャイハネでお茶を奢ってくれたオヤジたち。

 そのへんのお店に急に入ってもとくに嫌な顔をされず写真を撮らせてくれたりいろいろ見せてくれたりした。なにも買わないのに商売の邪魔をして申し訳ない。バングラデシュの人たちの優しさに甘えさせていただいた。クルナだけに、ロケットスチーマーに乗れないとわかったときは「来るな」と言われていたようであるが、4日も滞在したのちに首都ダッカに向かったのであった。

クルナでいっしょに路上クリケットを楽しんだ少年たち。彼らもいまや立派な青年だろう。

首都ダッカ

 クルナの駅を夜に出発した列車は座席車だった。車両は非冷房だったものを家庭用エアコンでむりやり冷房化したもので、その冷房が僕の座席の真向かいにあった。冷風直撃、いくら18歳でも病み上がりにはきつかった。
 翌朝、首都ダッカのコムラプール駅に着いた。クルナも大きな都市ではあるが、こちらは人口一千万人近くを抱える南アジア有数の大都会である。

ダッカ市内の道路は慢性的に渋滞。

 バングラデシュで面白いのは市内の交通手段である。リクシャーと呼ばれる自転車のうしろに人力車の椅子を付けたタクシーのような乗り物があちこちを走り回る。ダッカは市バスも多い。道路交通公社の赤い二階建てバスのほか、無数の民間のバス会社がとんでもない量のバスを走らせている。

道路交通公社の二階建てバス。案内はぜんぶベンガル語。車両はインド製。

 日本ではトゥクトゥクで知られるCNGと呼ばれる三輪タクシーも走っている。金網がついているので防犯対策もばっちし。ただし運転手が悪者だった場合は知らない。コムラプール駅からは近郊に向けての客車列車も走る。よく人が屋根の上まで乗っている鉄道の写真があるが、インドよりもバングラデシュのほうが屋根乗車が多い。
 ダッカまで来るといちおう観光地らしいものは現れるのだが、ガイドブックは持って行ったものの特に読まず、誰かに言われてダッカから南に約40キロほどの港町マワには行った。

町中のモスク。とくに観光地というわけではないが、人々の営みが見受けられる。

ダッカ市内を歩き回る

 市内の移動にはリクシャーやCNGが大活躍である。小さくて細い路地にも入れるリクシャーは運賃も安くてあちこちで拾えるので便利なのだが、路地を歩いているときは轢かれないように要注意である。
 旧市街地は細い道がいくつも入り乱れていて、そんなところにもリクシャーはすーっと入ってくる。リクシャーを拾い旧市街地を進むと人だかりがあった。海外旅行で「無秩序に人が集まっているところには行くな」というのは鉄則だが、好奇心だけであちこち歩きまわっていた18歳の僕に怖いものはなかった。「あそこに行ってくれ」と運ちゃんにジェスチャーで伝え近付いて行くと、とつぜん集まっていた人たちが叫びだした。ただごとではない空気になっている。運ちゃんは振り向いてなにか言ってくるのだが、取り合えず「引き返してくれ」と英語で言いながらジェスチャーすると急いでもと来た道を戻っていった。あれがいったい何だったのかはわからない。

写真が残っていた。たいへんなことが起きていたのかもしれない。

 別の大通りで降ろしてもらいまた散策をはじめると馬車が動いていた。あとで調べるとその一帯でのみ動いているようだ。乗ればよかった。

馬車。

マワでぼったくり

 港町のマワは40キロの距離があり、リクシャーやCNGで行くわけにはいかないのでバスに乗る。バングラデシュの路線バスにはベンガル語しか書いていない。バスが集まる一帯で「マワ!マワ!」と叫び続けると「このバスがマワに行くぞ」と教えてくれるベンガル人のおっさんが必ずいる。優しい。大好き。

バスにはベンガル語しか書いていない。行きたい場所の地名を叫んでいると誰かが教えてくれる。たぶん。

 排気ガスにまみれてダッカの街を抜けマワに向かう。バスにはひっきりなしに物売りが乗ってくる。バス車内での飲食も自由っぽいのでてきとうにつまみを買ってジュースを飲むのもいいだろう。
 さて港町マワに着いたはいいものの特にすることはない。港を散策してお昼時だったので魚でも食べて帰ろうと一軒のレストランに入った。フィッシュカレーは美味しかったのだが、会計時に店員が「3000タカだ」と言った。なにが3000円だ。完全なるぼったくりである。

ぼったくりレストラン。味はよかったのだが。

 たしかに魚は高い食材かもしれないが、似たような食堂で食べても200タカ前後のこの国で3000はさすがに盛りすぎだろうと抗議した。とくに高級な食材を選んだわけでもないし、高級レストランでもない。一瞬、店員が英語がわからず一桁間違えたのかなと思ったが、伝票には3000と書かれていた。
 いちおう英語で抗議するも、僕も相手も英語ができないので関西弁とベンガル語での言い合いになる。いつの間にか人が集まってきたので「3000は高すぎないか」と周囲に言うと、まわりがベンガル語でなにか話し合い、あっさり「500タカでいいよ」と言われた。
 バングラデシュに滞在したのは一週間ほどだったが、嫌な思いをしたのはこのときだけである。
 近くをうろついていると、歳の近い青年たちに話しかけられて写真を撮った。クソみたいな町だと言いそうになっていたが、彼らと飲んだチャイで流された。

マワのバスターミナルで話しかけてきた少年

怪しいおっちゃんと酒盛り

 外国人旅行者が多くないダッカにはこれという安宿街がなく、かといってぼろ宿に泊まる勇気もなかったので中堅ホテルに泊まったのだが、バックパッカーからビジネスマンまで誰でも御用達のホテルだったらしく、ここで久しぶりに日本人のおっちゃんに会った。バングラデシュで商売をしているという。
 夜にホテルに戻るとそのおっちゃんにロビーでばったり出くわし「いまからバングラデシュで5本の指に入る大富豪とメシ食いに行くからついてこい」と言われ、車で豪邸に行った。5本の指に入るのかどうかわからないがお金持ちなのは間違いないらしい。

南アジアの娯楽といえば映画。ヒンドゥスタン映画が強いが、ベンガル語映画も頑張っている。

 おっちゃんは富豪らしき人物と違う部屋に行き、同い年のベンガル人高校生男子とその小学生の弟と取り残された。彼らとアングリーバードのゲームで一時間ほど遊び、ご飯を食べてホテルに戻った。そのときに出会った高校生の彼は英語ができ、のちにマレーシアの有名大学に進学、なぜか一度だけクアラルンプールで会ったがけっきょくあの家族が何者なのかはわからない。
 ダッカを離れる前日、またもそのおっちゃんとロビーで出くわしたら夜に部屋に来るように言われた。行くとベンガル人数名とおっちゃんがウイスキーで酒盛りしていて「ここはムスリムの国やからお酒はあまり大っぴらに飲めないね」と言うおっちゃんの横でベンガル人ががぶがぶウイスキーを飲んでいた。
 けっきょく、あのおっちゃんが何者だったのかわからない。名刺も貰ったが怪しすぎてちょっと踏み込めないのである。

果物屋さんのおっちゃん。写真を撮りたいと言うとキメてくれる。

日本語を話すバングラデシュ人

 ときどき日本語がぺらぺらなバングラデシュ人と出会う。日本に出稼ぎに来ていた人たちだ。90年代には多かったそうで話しかけてくるのはだいたい中年くらいの男性だ。
 ショッピングセンターでぶらぶらしていると急に「きみ日本人?大学生?」などと言われたり、バスに乗っていると「もしかして日本人かな?」と横に座っている人をどかして話しかけてきたりする。みな久しぶりに日本語を話すらしくいろいろ紹介してくれる。そして「困ったことがあれば電話しなさい」と電話番号も教えてくれる。この「困ったことがあれば~」は日本語ができる人に限らず、少し英語ができる人もおなじように言ってくれた。特に困ったことはなかったので誰にも電話しなかったが、もし電話しても助けてくれたのではないかと思う。

フードコートで店舗を営む日本語を話すおっちゃん。なにか食べたらよかった。

さらばバングラデシュ。また行きたいぞ

 まともに歩いたのもクルナとダッカ、マワくらいなのだが、バングラデシュはいい人が多く、観光地はなくても楽しいところだった。女性ひとりで歩くのは少し危ないが、体力に自信のある男性であれば危ない目に遭うことも少ないかもしれない。
 ダッカからは夜行バスで国境に向かった。バスターミナルのテレビの前にはバングラデシュ人が集まって一喜一憂している。この日はクリケット世界大会のパキスタン対バングラデシュの試合があった。

左のほうにクリケット中継を観る人たち

 かつて印パ分離で命運を共にし、独立戦争で袂を分かったかつての支配国に対してバングラデシュの人々はどういう目で見ているのだろうか。クリケットの競合国どうしといった以上の複雑な感情があるはずだが、バングラデシュの負けが決まったときにも人々は残念がりながら落ち着いていた。隣にいた大学生風のお兄さんが「バングラデシュが負けたよ」と英語で教えてくれて苦笑いしている。

 いまダッカはどんな街になっているのだろう。行き場のない有り余るエネルギーをもとに発展を続ける国で、いまも優しい人々が笑顔で話しかけてくれるのではないかと勝手に思っている。

クルナの果物屋さん。この国は人が魅力的だった。

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