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第三巻 内なる仮想空間  3、内なる仮想空間の発見

3、内なる仮想空間の発見

※この小説は、すでにAmazonの電子版で出版しておりますが、より多くの人に読んでいただきたく、少しづつここに公開する事にしました。

 俺はある時から、人間には外側の世界を完全には見る事はできないのではないだろうかと思うようになった。何でこんな事を思いついたのかは良く覚えていない。初めはほんのちょっとした仮定だったが、だんだん確信に変わってきた。よく考えて欲しい、外側の世界には、電波も赤外線も紫外線もニュートリノや暗黒物質だってあることを我々は知っている。しかし、それらは私らには全く見えない。人は誰もが、外側の世界を正確に見ていると思っている。もちろん、俺だってそうだった。

でもよく考えたら、自分の感覚を通して見ただけの外側の世界を見ているに過ぎない。これは、よく考えてみれば当たり前のことで、我々の眼の性能には限界があるので、仕方のないことである。ここで、自分の感覚を通して見た外側の世界の事を、内なる仮想空間と呼ぶことにする。つまり、内なる仮想空間だけが我々にとって本当のもので、それは外の世界のごく一部を正確に写し取っていると考えるのが正しい。

外側の世界は実際にはもっと複雑で、我々には全部は見えていない。それは暗黒世界であり、「入り口だけが見えている深い森」といった感じだろう。暗黒物質や暗黒エネルギーなどは、たくさん存在しているはずなのに、我々には感じることができないのは、外側の世界が深い森であることをよく示している。実際に電波やニュートリノが見えたら、かなり鬱陶しくなるだろうが、、、。

 ところで、我々が見えているこの内なる仮想空間の世界は、実際にはどこにあるのだろう。それは、我々の頭の中だけに存在するとしか思えない。人は、外側に見える世界と全く同じ世界を、自分の頭の中に作り上げているのだ。これこそが内なる仮想空間なのだ。この内なる仮想空間は、本当によく出来ていて、人々はほとんどその存在にすら気がつかない。おそらく多くの人が、このトリックに騙されていて、死ぬまで自分の見ているものと同じ世界こそが外側の世界であると信じて一生を終えるのだろう。

 最近は、この方面でも技術が進んで、仮想現実ゴーグルをかけて三次元のビデオなどを見ると、現実かウソかわからないほどリアリティが高いソフトが出ているという。俺はまだ経験した事はないが、これはおそらく我々の内なる仮想空間に、まともに働きかけるのだろう。その意味では、現実だと言って差し支えあるまい。なぜなら、我々にある現実とは、この内なる仮想空間だけなのだから。

 人は多くの場合、新しい出来事にぶつかると、外の世界と内なる仮想空間の違いを感じ、直ぐに内なる仮想空間を修正している。例えば、駅の近くの酒屋がセブンイレブンに変わったとすれば、直ぐに内なる仮想空間の修正にかかる。これは、余りに瞬時に行われることなので、自分ではほとんど気がつかない。普段の生活でこの双方が違っていたら、たいへん困るからだ。

 ところが、それが分かる場合がある。十年以上経って自分の育った所へ戻った経験などないだろうか? 俺は、中学二年になる時に、大森の下町から山の手の国立へ引っ越した経験がある。以来、二十年後くらいに昔育った大森の街に戻って、奇妙な違和感を感じた。道はもっと広かったはずだとか、街はもっと明るくきれいだったとか、その辺の全てがミニチュアのように小さく感じられた。

自分の体がもっと小さかったから内なる仮想空間では、それに沿ってできていたのは当然のことなのだが、その時、奇妙な違和感を感じた。これこそが、外側の見えた世界と内なる仮想空間の違いを感じた時の奇妙な違和感なのだ。その違いが余りに大きいので、自分の内なる仮想空間の修正に戸惑っていたのだろう。似たような感覚は、久し振りに帰った実家の近くにコンビニが出来ていたりして感じる感覚に近い。

 俺は、三十代半ばに研究者として、米国に二年間留学したことがある。このような長期の留学をした人は誰もが、初めの一ヶ月くらいはたいへん疲れる事を経験しているのではないだろうか? これは多分、日本人から米国人になるための、体全体の必死の適応期間なのだろう。ともかく、何もしないのにやたらと疲れた。その時、俺はとても米国で研究などできる状態ではないと諦めていた。それが不思議な事に一ヶ月を過ぎると、全く疲れなくなった。その頃からは、気を付けないと米国にいる事を全く忘れているのだ。米国人になった瞬間だ。

 やがて、車も手に入り、気分転換に旅行に出た。俺は、この日のために日本から、十本くらいのカセットテープを送っていた。俺は、音楽の程度はそれほど高くはなく、演歌や歌謡曲だけが大好きだ。だから、ほとんどの曲目が演歌と歌謡曲だった。車でそれを聞くのは、魂を揺さぶられる。米国でもそのつもりで、百キロ以上のスピードで国道を走りながら、カセットのスイッチを入れた。

ところがである。魂を揺さぶられるはずの瞬間に、信じられない違和感を感じたのである。何とも言えない違和感だった。確か、吉幾三か八代亜紀を聞いていた時だった。余りの違和感に、隣の家内の顔を見た。ところが、家内も同じような違和感を感じていた。この奇妙な違和感は一体何なのだろう? この違和感は、久しぶりに大森の街を見た、あの時の感覚である。

 内なる仮想空間には、たぶん音楽やその人の価値観なども含まれているのだろう。我々は、古い歌謡曲を聞くとその頃を思い出す。俺は、「青春のたまり場」という曲を聞くと不思議と大学生時代を思い出す。米国で疾走する車の中で聞いたあの演歌は、たぶん米国人になりきったその頃の俺たちには、内なる仮想空間のどこにそれを納めたらよいかわからずに、自分自身が困っていたからなのだろう。

 内なる仮想空間は、いつも無意識のうちに現実の外側の世界と整合性が取れるように修正されている。あまりにもそれが速く完全に行われるので、多くの場合、内なる仮想空間の存在に気がつかない。しかし、時たまその修正が無意識ではすまなくなり、このような不思議な違和感を感じるのだろう。

 青い空 誰もみているこの景色 でも本当は 頭の中に

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