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群青すい「アイスココアを飲むふたり」感想

「文芸くらはい」はシロート読者・春Qが文芸作品を読んでアレコレと感想を書く企画です。感想を書いていい作品は絶賛募集中。詳細はこちら


 雨に台風、恐ろしいですね。春Qの地元でも局所的に豪雨があり、家の前の道路が冠水しました。雨が止むに伴い水はひき、結果的に被害はなかったのですが春Qはドタバタでした。
 自然災害に限らず、なんですけど。
 文芸活動には落ち着いた環境や道具が必要です。そういうものから一気に引き離されて、身を守る行動をとらざるを得ない書き手がいる。自分ごとと思うと心穏やかではいられません。みんな無事でいてくれ~!

◇「アイスココアを飲むふたり」あらすじ

「わたし」は喫茶店で、別の席に座る二人組の会話を聞いている。二人とは背中合わせに座っていた「わたし」だが、ふと振り返る。何の話をしているのかと尋ねたが、ごまかされてしまう。二人は立ち去り、テーブルの上にはアイスココアのグラスが二つ残された。


 こちらは2011年8月発表の作品。凄い、実に13年前ですね。こういう時を超えた出会いがあるから文芸はやめられないんだ。

 作者の群青すいさんは、最近はnoteで詩を書いているとのこと。

 また、Xでも活動しておられます。SNSとしては色々と問題の多いXですが、現代詩との相性がとてもいいですね。
 日々の思いがいつの間にか詩になり、詩が暮らしに回帰していくさまを見るのは、なんともいえず心地がいいのです。

 13年前に発表した「アイスココアを飲むふたり」からも、詩情の片りんを感じます。ただ、これはリアリズムにも通じているんですよね。

「だから、もういなくなるよ」
 夕飯の分のご飯は炊かないと足りないよ、みたいな気安さで言った声はまろやかで、声変わりしたばかりの少年のような、年を経て低い声になった女性のような、希望と諦観がマーブル模様を描いているように聞こえた。

群青すい「アイスココアを飲むふたり」※改行を削除して引用

 冒頭を読んで、なるほど(CV:緒方恵美)か、と思いました。あの・・・エヴァンゲリオンのシンジ君を演じた声優さんです。最近だと、キャラソンプロジェクトのクロケスタにも出演されています。

 どうですか。まろやかで、声変わりしたばかりの少年のような、年を経て低い声になった女性のような、希望と諦観がマーブル模様を描いているように聞こえませんか?

 実際にイメージした声が緒方恵美さんとは限らないけれど、「中性的な声」と一言で済むところを丁寧に描写しているのは、こだわりがあるからだと思います。春Qもこういう声が好きだからわかる。ドキッとするよね。

 そしてそのなぞめいた人物は「琥珀のようにあかる」い髪の少女と会話している。「ふたりはこの古き良き喫茶店でいかにも浮いていたけれど、常連客が吐き出す煙が幼い輪郭を何となくぼやかして、ぽつぽつ続く謎めいた会話を希釈するように古い英語の歌が有線で流れていた。」・・・いいですよね、一枚の絵が思い浮かびます。

 で、ここで疑問が湧く。「わたし」は、この二人の客と背中合わせに座っている。だから中性的な声の持ち主の容姿はわからないのですが、そしたら少女の髪色だってわからないのではないか?

 店内の壁が鏡になっていた? トイレに立った時、すれちがいざまに見た? いや違う。違うんだ。春Qは強いジレンマを感じました。

 むっちゃわかるんです。作者はこの謎めいた二人組を、一般人である「わたし」の感覚を通して描きたい。そして二人組を立てるために「わたし」にはモブであってほしい。ゆえに「わたし」のパーソナルな設定――たとえば、何故この喫茶店にいるのか、年齢や容姿や社会的な立場やその他もろもろ――については触れない。ノイズになるから。

 だけど少女のことは声以外の要素で説明したい。きっと頭の中には漫画でいう引きの構図があったんじゃないのかな。「わたし」が前を向き、席を挟んで中性的な人物の後頭部があり、少女の顔は明らかになっている・・・みたいな。だけど読み手は「わたし」の立場で読んでいるから、なんとなく辻褄が合わない。・・・違うかな。

◇謎めいた会話

 内容理解のため、ふたりの会話部分だけまとめてみました。太字は中性的な子のセリフ。

「だから、もういなくなるよ」
「みんな?」
「みんな」
「だって、こんなの、きっとだめなんじゃないかと思うんだよ」
「あたしたちも、いなくなるのね」
「どちらが先かはわからないけど。最後にたどり着くのはみんなおなじ場所だから、そういう意味ではさびしくないかな」
「……こわいね」
「少しはね」
「そのときも一緒にいられるかな」
「そうだといいね」
「一緒にいられれば、 そこがあたしたちのしあわせになるんだもの」 

春Qが勝手にまとめたふたりの会話

いやもうひとの作品をこんな編集するの我ながら悪魔的所業だと思うんですけれども。感想を書くためなのでひらにご容赦ください・・・。

 この作品の核は謎めいた二人の会話にある、と春Qは思います。今度は、会話から読み取れる情報をまとめてみましょうか。

・「みんな」はもういなくなる。
→「みんな」なので、会話しているふたりのほかにも複数の人物がいる。
・「みんな」はイレギュラーな存在である。
→「こんなの、きっとだめなんじゃないかと思う」ところから。
「みんな」はバラバラにいなくなる。
「どちらが先かはわからない」ところから。
・いなくなった後、「みんな」は同じ場所にたどりつく。
・ふたりは一緒にいることを幸せに感じている。

◎まとめ
 この世界にとってイレギュラーな存在である「みんな」はバラバラにいなくなるけれど、その後は同じ場所にたどりつくと決まっており、会話するふたりは一緒にいることを望んでいる。

会話からわかること

 うーん。なにか霊的な存在だったりするのかな?

 たとえばピーターパンには、ロストボーイズという現実世界からはぐれてしまった子供たちが登場します。彼らはネバーランドに連れてこられてそれなりに楽しくやっているわけだけど、見ようによっては「こんなの、きっとだめなんじゃないかと思う」設定ではある。

 あるいは唐突にアニメ「AngelBeats!」のネタバレをしますが、あのお話の舞台は、不幸な死に方をした少年少女たちが青春を満喫するために用意された死後の学校でした。だから登場人物たちは満足すると消えてしまう。

 春Qは永遠の中二病なのでいなくなる=死ぬという見方しかできないんだな。。。だからさ、とある研究所で生体兵器として不老不死の研究をしていたがなにかしらのトラブルがあって研究は凍結、あとには実験体の少年少女たちだけが残され細々と生きていたが少し長生きなだけで不死身ではないのであともう死を待つばかり、みたいな世界観なのか!?と妄想しました。

 それでそういう世界観だと、本編が別にあって、その予告編としてサラッとショートショートがある、みたいに読める。

◇「わたし」との関わり

 何度か読み返すうち「わたし」は単なるモブでもないのかな~という思いが芽生えたので、それについても書いておきますね。

「わたし」は背中合わせに座ったふたりに接近しようとしているんですよね。「唐突に大切な何かを思い出したひとの動作で少女を見た」。そして「……何の話をしているの?」と訊き、ごまかされた後にはふたりの飲んでいたアイスココアを注文する。

 これって、作家が登場人物のことを知ろうとする話なのかな? と思った。春Qも身に覚えがあるんですね。謎めいた会話と特徴的な登場人物だけが浮かび、詳しく知ろうとすると、サッと離れて行ってしまう。

 眸が笑みのかたちに細めれらたと思うと、ふたりは素早く立ち上がり勘定を済ませて出て行ってしまった。
 しばらく後ろ姿を見つめていたけれど、窓に切り取られた夏の風景からふたりはさっさといなくなった。

群青すい「アイスココアを飲むふたり」

 このnoteを読むひとってたぶん自分でもなんか書くひとだと思うのですが、どうですか? こんな感じで登場人物にすげなくされた経験はない?

 春Qはお話を考えてて、キャラが掴めない時とか「あれっ?こいつこういう時ってどんな行動するかな?」ってわからなくなることがあります。それで、創作小説キャラクターに100の質問を投げかけてみたりなどして、「ダレおまえ、知らない!」みたいな回答しか思いつかない。。。

 というわけで、「わたし」は二人とお近づきになりたい作家を具現化した存在なのかな? と思いました。・・・とすると二人の会話も、単なる死とは違う意味合いを含んでいるのかもしれないですね。面白!


次回の更新は9/6の予定です。
見出し画像デザイン:MEME

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