朝靄

 晩秋の寒気がひゅうっと抜けて、自動販売機の灯りが照らす深夜三時。男たちは酒場に集う、酒場にはすでにブルーシートが引かれ、彼らはおお、寒い、と手をすり合わせながら、結局ビールを干す。すでに電源を抜かれたダーツの機械や、カウンターに無造作に並べられたグラスは、有機的に突然命を持って男たちは鍋をつつく。話は、まるで湯気のように不安定にあちらこちらを行き来する。

「モツ、うまいな。あ、そういや忘年会、来月二十九日ね。」
「あれ、お前二十歳なったんだっけ? え、まだ? 若いって恐ろしいね。」
「それでは、大吟醸生酛、初孫です! 」
「孫作る前に子作れよ。」
「いやあ、だけど、どっちから告白したの? 」
「おい、ビール。」
「食べると飲めないなあ。」
「山手線ゲーム! 昔好きだった人の名前!」
「あ、先輩、両手に花、ですね。」
「私が正室で君が妾、ね。」
「おい、鍋、全部食べたか? 」
「山手線ちゃんと一周しようよ。」
「そのニット帽、とってみ、俺のが似合うよ。」
「それじゃあ、がん患者みたいだぞ。」
「夜は長いぞ、一人で駆け抜けるなよ。」
「モツ、うまいな。」

男たちは雑多な会話を楽しむ。会話の内容なんて関係ない、その蒙昧さが素晴らしい、その雑然が美しい。と、彼は思う。彼は、学問なんて、と思う。

「学問なんて、」と彼は誰が聞いているわけでもないのに話し始める。「学問なんて、やらなかったらよかったんです。何も知らなかったあの頃は幸せでした、義務教育は、無知で幸福なクローンを作り出します。知識が体系化する、ああ、こういうことだったのか、とわかる、すると僕は素敵だったあの感性の全てを一瞬で失ってしまう」 
 彼の言葉は酒を煽るコールの声にかき消され、彼はまたそれにうっとりとする。よい雑然さというものが世界には存在するものだと、そう思う。海の上を走るモノレールはその一本の定規の上を美しく走るけれども、きっと行き先もわからないクロスバイクはもっと美しい線を描く。
 彼はヒゲのオナベとキスをする。ヒゲのおナベはポッキーを咥えていて、男はそれを反対側から咥えて、唇を合わせる。どっという笑い声とシャッター音、それから哲学の話があって、なぜ君はそんなにもキスをするのかと男たちが問う。若者は、それはアイデンティティみたいな問題なのだと言ってビールを飲む。

そうでないと僕はすうっと消えてしまうんです。幽霊みたいに。

「だけど、普通の、俺らみたいな人間は、オナベとキスするなら消える方を選ぶ。」
「君、難しいこと考えてるのね。」
「思ったこと、ないですか? 」
「一回も。」
「僕の価値が欲しいんです、僕だけの。」
「好きなんでしょ? 」
「やめときな、沼だよ。」
「飛び越えていきたいですね。」
「でも、沼だから踏み切れない、俺みたいになる。」
「君のゴールが私なんでしょ、好きなんだって、やっぱり。」
「僕、19でここで終わりですか? 」
「一歩先、踏み込む前に飛び越えろ。」
「ですねえ。」

クリスタルキングの大都会が流れ、マイケルジャクソンのBeat itが流れ、岡村靖幸のぶーしゃかLOOPが流れて、サカナクションの新宝島、電気グルーヴ、モノノケダンス、ブルーハーツ、青空、YouTubeのDJは適当にレコードを拾い集めては、最大公約数の音楽を流す。彼は、その雑然さにもう一度うっとりする。

だけど僕は、と彼は思う。僕は、たぶん家に帰ったら部屋の掃除をするだろう、と。掃除や洗濯や、アイロンや、本棚や櫛は整然で、三島由紀夫だ。それはあまり難しい話ではない。

「それにしても、モツが美味しかったな」

自動販売機の夜は徐々に白み始め彼の道は開けていた。自転車に乗った警官がちらりと彼の方を見た。酒場を出た男や女たちは酩酊して心地よさのままに分かれ、眠った。あるいは手を繋ぎ、あるいは会話を繋ぎ、あるいは繋がれるはずのなかった様々の運命が繋がっていた。

彼は覚醒しながら夢を見て、紅茶にブランデーを垂らしながらひゅるりと寒気の中に飛び出して空を飛び、それは東京の海までとんでいってオフィスビルを見下ろしていた。そこには海を突っ切るモノレールが走っていた。

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