雲の季節は短い

 これはわたしが二十歳かそこらの昔の話だ。最近ではこんな風にして昔話ばかりしている。昔の話と言っても、ほんの2,3年の昔だが、それはわたしにとってひどく昔のことのように思われるからここでは昔ということにしている。
 ニカっと笑う医者がわたしの腕に注射の針を刺した、すると少ししてから恰幅のいい女性の看護師がわたしの腕をアルコールで湿った、かつて脱脂綿だったそれで拭う、するとわたしは捲り上げた袖を元に戻しながら、都庁のエレベーターを降りる。外に出ると、少し肌寒い冬の始まりのような乾いた空気がつんとわたしの鼻頭を通り過ぎ、遠くの公園から速度を上げてやってきたスケボーの男の汗の匂いに変わる。
 太陽の季節と呼べるのは一体いつのことだっただろう。暑さにやられてクーラーの聞いている部屋でアイスクリームを食べている間に、熱苦しい空気はいつの間にかどこかに行っていて、わたしはいつだってこんな季節を望んでいた。雲が遠くでオレンジ色に光っている、いつまで経ってもわたしはあの遠くの空の美しさを見つめ続けているのかもしれなかった。ニカっと笑う医者の人生に思いを馳せる時、彼の太陽の季節について思いを馳せることになった。
 口髭を蓄えた歌手は、金木犀の香りと一緒に旅立っていき、立ち上がるのをやめた。年老いた悲しみについて、それから彼の人生について思いを馳せるのはやめにしよう。特に好きでもなかったその歌手について、わたしが涙を流しているのには、一体どんな理由があるのだろうか。
 彼の旅だった後の家では、彼の大好きだったご飯を食べることが減り、彼の分の洗濯物が減ったとその母親は楽しそうに笑った。でも、彼はその分、"他のどこか"で、彼の大好きな食事をとるのだ、もちろん、彼自身がリングで戦ったファイトマネーで。
 プロ野球の季節が終わり、ロッカールームの野球選手たちはまた次の春が来るまで自らの体を鍛え抜く。年末くらいはゆっくりできるのだろうか。それとも、減量に苦しむボクサー同様に苦しい冬を迎えるのだろうか。しかしそんな野球選手たちですら、オフシーズンになれば未来ある子グマを殺戮して楽しみ、それから活躍するバスケットやバレーの選手たちの活躍を目を細めて喜んだりさえするのだ。 わたしが医者についてとやかく言ったって、許されるはずである。
 ところで、この寒いというのにあそこで肩を出して歩いている少女たちの腕には、結核を避けるためのハンコ注射のあとが残っている。どれくらいおすましして色っぽいフリをして歩いたって、そのハンコ注射の跡はまだ消えない。それは、あの文豪たちを苦しめた菌から身を守るための代償なのだ。だけど、それが残っている季節ですら、もうわたしにとっては愛おしいのだ。ダイエットの話題は少女たちの幸福の証である。もう、ハンコ注射の跡も、蒙古斑も、記憶すら曖昧になった後で、それでも家族は彼女のことを見捨てはしない。どれくらい太陽の季節が終わっていたとしても、彼女たちの家族が彼女を見捨てることはない。あの、ニカっと下品に笑う医者だって同じだ。自分がどれくらい立ち上がりたくなくったって、セコンドはタオルを投げ入れることはない。若い挑戦者に真っ向から立ち向かい、夕焼けの中で燃え尽きていく。
 最近はこんな風に昔話ばかりをしている。
 秋は、わたしが初めて自由になった季節だ。
 秋は、とても短い。
 秋は、短くて、美しくて、いい匂いのする、そんな、雲の季節だ。
 立ち上がらなければ紅葉は見えない。紅葉に気づくためには、この人混みの中から立ち上がらなければならない、どれくらい殴られたって、どれくらい老齢だって、若き挑戦者にこのまま破れるわけにはいかないのだ。
 
 最後に、切れた唇で、24時間テレビのエンディングを眺める。それは、いつか眠い目を擦ってみたあの憧れの番組ではなく、作為に満ちた、下卑たものに見えたかもしれない。だとすれば、この短い季節に乾きづらい洗濯物の愚痴をこぼすことくらい、大したことではないのかも知れない。
 アリョーシャがわたしに向けて激しく伝える。「苦しみこそが人生だからですよ。 苦しみのない人生にどんな満足があるっていうんです。」
 風は、風。

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