火星人と花の色【3】

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 三ヶ月前のことだ。冬だった。朝起きると僕は、蟹に会いたい、と思った。足の長い蟹。火星人みたいにちこちこ歩く蟹だ。僕は時々そういう突拍子も無い欲望を感じる。
 僕は山手線に乗って水族館へ向かった。その蟹への欲望があまりに唐突で強大だったから、電車に揺られる時間は火星に行くよりも長く、永遠だった。
 退屈だった。
 彼らはほとんど動かず、重く、苦しい水の中でぷかぷかしているだけなのだ。長い足が世界を大幅に切り取ることができると思っていた。これなら動物園でライオンを見ていた方がよっぽどよかった、と僕は思った。彼らは少なくとも自分の意思で歩きはする。
 
 やっぱりタコよりカニの方が、火星人ぽいわ

 背後に、真っ黒な髪とそれによく似た色のドレスを着た女がいた。
 こうして火星人を巡る物語が始まった。
 三十二歳。彼女についてわかるのはそれだけで、名前も、生まれた場所も、僕は何も知らない。彼女の二十代はまるで水が容器に身を任せて形を変えるのと同じように、彼女が生き、歩き、酒を飲んでいる間に過ぎ去ったという。彼女は二十代であることをいつの間にかやめ、三十二歳になり、水族館でひとりの男と出会った。僕だ。

 紺碧の空の奥にゆっくりと太陽は姿を潜め、夜が始まろうとしていた。ベッドの上にはセックスを終えた僕と彼女がいて、夜が始まった喜びを感じていた。思いを共有するように、夜の始まりを祝福するように、僕は彼女に口付けた。
 今だと思った。今だ。

 要はタイミングなのよ
 タイミング、と僕は繰り返して言って、大きなリュックから細長い紙袋を出した。
「ねえ、あなたにプレゼントがあるんだ」ベッドの上で僕は彼女にウィスキーの空き瓶を渡した。
「ねえ、聞いてた?タイミングだって」
「今がその時だったと思う」
「君は下手だね、でも、これはイケてるよ。誕生日のプレゼントにはぴったりだ」
 僕はカレンダーを眺めて、今日の日付をしっかり記憶した。来年も再来年も今日を祝わなければと思った。
 じゃあ、飲もうか。彼女はその空き瓶を冷蔵庫にしまって、代わりに中身の入ったジム・ビームの瓶を冷凍庫から出した。
「君はダメよ、未成年だからね。未成年は蒙昧なの」
「僕も飲むよ」
 彼女からロックグラスを奪い、彼女の口紅の跡が残るコップの淵に口を当て、一口飲んだ。煙を溶かしたような嫌な匂いだ、と僕が言うと、彼女は笑った。奪い取った時に中の液体が揺れて、冷たいウィスキーが僕のへそを伝ってとろりと彼女の肩に流れた。その甘美な映像に僕は見入っていた。
「私、君の背中が好きよ」
「僕もあなたの背中が好きだ」 
「私みたいな生き方しかできない女と関わるべきじゃないのよ。十代のうちはね、もっと嫋やかで、淑やかな女と寝て、二十歳になったら倒れるくらい酒を飲むの。そして、絶頂で死ぬの」
「あなたは三十三歳になってしまった。それでも僕はあなたが好きだ」
「でも私は私のことが好きじゃないの」
 彼女は自分の昔の話をしなかった。まるで、それに触れたら色々な物事の根っこみたいなものが崩れてしまうかのように。彼女の二十代はどのようにして過ぎ去ったのだろう?
 すでに日は沈んで、部屋は薄暗かった。グラスが空になると彼女は立って行き、新しく注いだ。ベッドが軽く軋んで、根の緩い彼女の植木鉢の花がふわりと香って、それからカーテンを閉めた。外からは電車の走る音が聞こえた。また、踏切が鳴っている。とん、とん、とん、と踏切が僕たちの囁きを遮ろうとしていた。
 「ねえ、あたし酔ってる? 」
 「少しね」
 「君も飲みなよ」
 「未成年は蒙昧だから飲んじゃダメなんだ」
 「そんなこと誰が言ったのよ」
 「シェイクスピア」僕は彼女の小指をかじった。
 「痛い」
 「ああ」
 「シェイクスピアは、どうして未成年は酒を飲んじゃダメなんて言ったの? 」
 「彼が言うにはね」僕は少しうんざりして話した。「蒙昧な未成年は飲む必要がない。酒は論理を殺すためにあって、カオスの中を彷徨う若者は飲むべきではない」
 「大学生って頭いいのね」
 「少しね」
 「飲みなよ。今日は特別。ねえ、火星人の話をしてよ? 」
 僕は立って、冷凍庫を開け中の入った瓶をベッドまで運んだ。彼女の持っているグラスに丸い氷と残りのジム・ビームを全部注いだ。注がれたウィスキーは悲しそうにグラスから溢れ、彼女の太ももを伝った。冷たいわ、と彼女が言い、ごめん、と僕は啜る。空になった瓶を見て彼女は酔いが覚めたように目を輝かせた。

 きれい。

 僕は冷蔵庫に彼女がしまった空き瓶も出して、今、どこからともなく現れた宝石の隣に置いた。彼女は酩酊して誘惑するような細い目で、二つの透明な鉱物を果てなく眺めていた。

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