フェニキア人のラジオ

 午後1時の淡い太陽に、季節が変わってしまったと感じた。弱くなってしまった太陽の季節に、既に散り終わって集めるのも忘れ去られたイチョウの葉々が、渦になって私を取り囲むようにし、一層もの寂しい。「冬将至。」タイミングを見てみたいと思う。いつの間にか秋は私の元から去っていき、その次の季節がいつの間にかやってきていた。そのことは、我が祖国の数千年の歴史も当てにならないのだ。

 いたずらに誰かの視点を気にしながら、「もの寂しい」と感じ、口では、「寒ぃ」と音のならない声を発し、もう季節にそぐわない薄手のコートを閉じる。そういえば、昨日の酒場の会話は依然としてそこにあって、イチョウのようにぐるぐると4次元空間を這い回っているのだろう。発される瞬間のその一瞬の煌めきを、飢えた蛇のように鋭い目で見計らいながら、彼らはその時を待っているのだろう。あの瞬間の熱い言葉たちは、その場所でぐるぐるとただその時を待っている。

 2千年前の言葉もそのうちの一つだ。何年経とうが、その言葉たちは任意の場所で勝手気ままに時間を過ごしながら、誰かがラジオのチューニングを合わせるのを待っている。火山灰にやられてしまったポンペイの住民たちの、生活の声がまだそこら中を彷徨っている。北極星の傾きが少しだけ変わったころ、私たちはその声に気づくことができるのかもしれない。あるいは、火の鳥がやってきて教えてくれるとか。一生懸命発掘を進めたら彼らの手記の一部が見つかることだってあるだろう。そこまで私たちがアカデミックに生き続けることができれば、の話だが。

 ある政治家に一掃されてしまったホームレスは今どこに暮らしているのだろう。彼らが集団で前に進もうとせず、そこにとどまり続けるのは、恥ずかしいからだ。実際にそういう風に言う男を見たことがある。私はただその時じっと見ていた。遠くからただじっと、彼らが子供達と素敵に笑いながら鬼ごっこをしている(実際は子供たちは本気で逃げている)、私はそれを止めようとも助けようともせずただじっと見ていた。どうせ、体力の有り余る子供達に、彼らが追いつけることはないのだ。
「恥ずかしいからだよ!」
一人でいるのは、恥ずかしいからだ。

 深夜1時、急に電話が鳴った。ぶつ、ぶつ、と電波が悪い時特有のノイズを鳴らせながら、(確かに私はその声にうまくチューニングすることができなかった)明るい声で、明るい時間を伝えてくれた。時差は8時間、飛行機の中では日本を出ているので、Netflixでジブリが見られる。ローマの休日を楽しむ彼女をよそに、私は祖国の労働を楽しんでいた。かつての将軍スキピオは、25歳にして元老院を納得させる挙措を身につけていて、私はといえば、いつも金のことばかり考えている。よく使っているアプリのレコメンドに、マネーフォワードミーが出てき出したら黄色信号だ。

 一人でいるのは恥ずかしいか?

 どうしてそんなことを聞くのだろう。一人で生きるのは立派なことだ。
一人で時間を過ごせることこそが教養である。一人では食べきれない量のサラダを慣れない言語で注文するのも、トコジラミがいないか入念にチェックするのも、観光客同士で写真を取り合うのも、教養である。一人で歩いている人間には、繁華街のキャッチだってあまり取り合わない。それが教養だ。

 淡い太陽が、少し目を離したすきにあっという間に暮れていって、17時にはもう「夜」だという感じになってくる。部活動を終えて、まだほの明るい時間にどきどきしながら道を帰った日は心が躍ったものだが、受験生になると、授業を終えて校舎を出た頃にはもう次の予定のことを考え出している。下駄箱の、あのなんとも言えない無造作な匂いが、私たちを未来に駆り立てていた。未来に私がチューニングできるかどうかは、曲線と曲線の間の面積には当然含まれていないだろう。だけど同時に、「フン人の土地、フン人の土地、ハンガリー!」という世界史の授業だって、スキピオが学んだハンニバルの兵法だって、私たちの未来を形作る一助にはなっていないのかもしれない。もしかしたらの話だ。
だけどきっと、あの瞬間、狭苦しい教室に響いていた声は、今もそこに、じっとあって、未来の未来を見ている少年少女を未来に駆り立てていることだろう。

 だが、一つだけ気を付けておかなければいけない。
ポンペイの住民のように、無頓着でいることは非常に危ういだろう。私たちは常に注意深く(いつも値切り交渉をするように)歩いていく必要があるだろう。スキピオはこんな風に刻んでいる。

  恩知らずな我が祖国よ。
  お前が我が骨を持つことはないだろう。

 4次元空間のどこかしれないところで、一等星のように輝いたこの言葉の持つ、銀河系最大の恒星のようなエネルギーは、翻って私たちの胸を抉るだろう。そうならないように、私たちは一人ずつ、恥も外聞も投げ捨てて歩いていくしかないのだ。淡い昼の午睡に漢文を読んでいるとなぜだか、この人生ですら、胡蝶の夢のような気もしてくるのだ。ねえ、デカルト先生。


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