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濱口竜介監督『悪は存在しない』

(濱口竜介監督の新作『悪は存在しない』をようやく鑑賞したので、所見を以下に。ネタバレ注意

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濱口竜介監督『悪は存在しない』は、たとえば黒沢清『カリスマ』のような、自然(天意)と人為の二項対立をめぐる寓話ではない、とおもう。いや厳密には、はじめこそそのような寓話が目指されるものの、結果的にそれが破産し、その自己修復をおこなうかたちでべつのものが帰結部に代入されて、最終的に作品はちがう二項対立をめぐる寓話になってしまう。ではそれはなんの寓話かというと、たぶん、「演技の」自然と人為、をめぐるそれではないか。


本作には「自然な演技」と「人為的な演技」(へんな表現だが)の両極端があらわれる。まず前者=「自然な演技」の極に位置するのが、主人公の。長野の山中、水挽町で便利屋をいとなむ巧は、いかにも森の智者という風体で、文字どおり自然との共生を実践している。その巧をえんじる大美賀均がスタッフから抜擢された非職業俳優だというのも周知だろう。ロベール・ブレッソンのいわゆる「モデル」(=俳優の表情から心理を徹底的に排することで、その身体を「素材化」する)美学がここでは踏襲されている。


じっさい巧の存在は作中、終始奇妙な魅力をたたえつづけている。イタチ科の小動物をおもわせる無表情。森林風景に溶けこんでしまう、茫漠としたたたずまい。平たい声でなされる朴訥なセリフ回し。冒頭などは巧が森のなかで木を伐り、薪を割り、水を汲むすがたを淡々ととらえていくシークエンスがつづくが、それら一連の行為を日常的におこなっているとそくざに知れるごくしぜんなふるまい(そうしてその行動にあくまでも沿う、カメラの長回し)に素朴な、いわゆる「ショット」としての魅力もかんじられ、それだけで延々とみていられるような強度がある。


演者にたいする先入観もなく、風景にとけこんだその身体は、およそ「自然」なものとしてうつるだろう。もちろんこの自然さを得るため、執拗な本読み過程のなかでセリフや行為を役者身体へと刻みつけていく濱口の俳優演出も知られているとおり。濱口自身が『ハッピーアワー』公開にそくし発表したテキスト集『カメラの前で演じること』では、魅力的な演技の体現者、つまりは雄弁な「からだ」として、ホウ・シャオシェン『ミレニアム・マンボ』の一シーンにしか登場していない、おでん屋のおばあちゃんが例にあげられていたが、この箇所でいわれている習慣化・無意識化された行為と、その主体としてのからだというのが、いま述べた巧の発するそれにも適合しているとかんじる。


おばあちゃんのからだが率直に語るのは、彼女の日々の暮らし、つまりは「習慣」だ。「習慣」は当初は意識的だった行為をやがて無意識へと織り込んでいく繰り返し作業だ。反復練習の中で我々は意識しなくてはできない行為を、意識せずにできるようになり、そのことによって次の段階へと進むこともできる(スポーツを想起すればそのことはわかり易い)。おばあちゃんのからだは、この「習慣」によって培われた無意識的なうごきを通じて、おばあちゃんの「人生」まで語っている、と言ったら大げさだろうか。

『カメラの前で演じること』P.27


ではこの巧がもつ「自然な演技」の対局にある、「人為的な演技」の体現者はだれか。むろんグランピング業者の末端として、説明会に召喚されたふたりのうちのひとり、高橋だ。そもそもこのグランピング計画の発案企業はタレント事務所にすぎず(コロナ助成金目当てで企画が立ちあげられた旨も指摘される)、おいおい会話のなかから判明していくように、この高橋も有名俳優の付き人から現タレント事務所のマネジャーになった経緯があり、さらに過去には演技経験もあったという発言から、あきらかにこのキャラクターには「俳優演技」への示唆が複数盛り込まれてもいる。


ただ高橋がなす人為的な演技とはメタ的な意味、つまり高橋をえんずる小坂竜士に課せられた演技の質を指すものではむろんなく(かれじしんは「かなしい愛嬌」とともにこのキャラクターを好演している)、十七年間を過ごしたというその骨身にしみついた「ギョーカイのお約束」、つまりコミュニケーションのコードとしての、紋切型と化した演技のことを指す。『カメラの前で演じること』からふたたび濱口じしんの言を引くと、


我々の反応は基本的に社会的なものだ。コミュニケーションを自分の思うように進めるために、愛想笑いをしたり、興味深そうに頷いてみせたり、ときに自分の立場を有利にするために怒ってみせたりする。その場その場にふさわしい振る舞いをするように我々のからだは慣らされている。我々のからだはそのように反応することにあまりに慣れ切ってもいるので、それは演技の場においても容易に破棄し難い。その場にふさわしい演技というのはこのようなものだろう、という見当とともに成される演技は「紋切り型」と呼んで然るべきものだ。

『カメラの前で演じること』P.65


この紋切型ぶりはかれと対局に位置する巧との共演場面をみていくとわかりやすい。とりわけ決定的なのがタバコをもちいた演出。巧と高橋はともに喫煙者と明示されるが、前者がタバコを「ただ吸う」のにたいし、後者はあくまでもコミュニケーションの一環として、つまりは「演技として」吸う。


巧が喫煙者だと最初に知れるのは、さきにもしめした冒頭部、日常のルーティンなのだろう薪割りのあとに一服している場面がそう。たいする高橋のほうは、町人たちからコテンパンにやられた説明会ののち、東京の会社でコンサルとのリモート会議をおこなっているさなかに、最初の喫煙場面がある。あきらかに計画の不可能を承知している高橋と黛にたいし、社長と、それと結託したコンサルは無理を押しとおそうとする(ここでも一種の「ギョーカイ演技」が発露されている)。そのようすに呆れたていの高橋が、ため息をつきながらひとりオフィスの窓辺へと移動し、窓をあけてタバコを吸いはじめる(=それでコンサルが画面の同期を終え、会社オフィスの内部がうつしだされたモニタ上から、高橋のすがただけがフレームアウトする)。


高橋はあくまでも怒りや呆れの表出として、つまりその「演技」としてタバコを吸う。こうしたコード意識は直後、さっそく長野への再訪を命じられた高橋と黛の両名が、高橋の運転する車中でとりとめなく会話をつづけるシークエンスからもわかる。会話のながれで会社への不満をいらだたしげに吐露する高橋は、そのふるまいにより黛を(「単純に大声が怖かった」と)萎縮させてしまう。直後、高橋はタバコを吸いたい旨を口にするのだが、すかさず「このタイミングでタバコ吸ったら最悪か」と、場の雰囲気=「コード」を意識し、それをおしとどめる。ここでも何重にもなった「演技」への意識が場を形成していて、あくまでもその一端=ツールとしてタバコが高橋には把握されていることもわかる。


その後、長野にもどり巧と再会してからも喫煙シーンがある。巧、高橋、黛の三人で水汲みをしたあと、「タバコって吸う?」と巧が高橋に聞く。肯定の返事をした高橋は、一拍遅れてじぶんのタバコを取り出して巧にわたす。つづけざま高橋は巧のそれにライターで火をつけようとし(だが巧はじぶんでさっさと火をつけてしまう)、ながれるようにじぶんも一服する。この一連が「ながれ作業」で、巧の薪割りよろしく肌身にしみついた所作だという点が察せられる。高橋がおこなうのはどこまでも、ギョーカイの上役にたいするそれのような、コミュニケーションの一環としての喫煙なのだ。でも巧はちがう。その後、娘の花をむかえにいく車内で、巧は「黛と高橋が同乗しているにもかかわらず」タバコに火をつけはじめる(それをみた高橋が、やはり「ながれるように」窓をちいさくひらいて応じる――このアクションにたいする予見も、すでに前段となる高橋・黛の車内会話のなかでしめされている)。これらの演出から、巧と高橋に課せられた演技の差異は明確になる。


するとあの謎めいたラストシーンに集約されるように、作品はこうした高橋の人為的な演技を断罪しているのだろうか。ちがうとおもう。それは作品題が「悪は存在しない」とされている点からも明白だが、ヒントはおそらく、説明会の場で巧が口にした「問題はバランスだ」という箴言にある。おもには生活水の汚染可能性についてしめされたこのことばは、文字どおりにはひとと自然、ないしは外来者と既住者の共存を説く揚言ととれるが、たぶんそれだけでは終わらない。『カリスマ』の「世界の法則を回復せよ」が、アクションという映画法則の回復をもしめしていたように、ここでいうバランスは、画面上に配置される演技の均衡をも同時に意味しうるのではないか。


それであらためて高橋の「人為的な演技」が発露されていた瞬間におもいをはせてみると、じっさいのところ画面上で目にするかれの演技はけっして露悪にはながれず、つねに「可笑しさ」「かなしさ」へと帰趨していたような印象を受ける。なぜかというと、高橋の演技を中和する相棒=の存在がいつもその隣に存在していたから。さきにしめした高橋との車中会話のさなかに、介護士から転職し(=とうぜん苛烈な労働疎外も暗示される)、まだ業界にきて間もない点が協調される黛は、「人為的な演技」に芯からは染まっていない存在としてえがかれる。だから説明会の場でも、(たとえば高橋がうどん屋の夫人=菊池葉月がスピーチをするさなかに水を飲んだり、区長=田村泰二郎の話にたいし「ハイ」という返事の声音がズレをふくんでいたりと、ほうぼうで「まずい演技」を披歴していたのにたいし)、高橋の置いたマイクを要所で手にとり、じぶんたちの不明を恥じたうえで、町人たちから教えを乞う誠実な態度をみせていた。


こうした「バランサー」としての黛がいるかぎりにおいて、高橋のおよそ場にそぐわない、人為的な演技は「悪にならない」。車中会話それじたいもそうで、さきほど述べた高橋の憤慨とタバコへの示唆のあと、婚活アプリの通知を介して気まずげな雰囲気が一気に笑いへと変わる。婚活アプリも、結婚願望の典拠を「寂しいから」とするふるまいも高橋はすべてが紋切型だが、それを茶化す黛の存在により、会話はそのまま「ながれていく」。説明会の場で区長は川のながれの譬えを出していたが、破産なくつづく車中場面の会話はまさにその比喩にも該当するだろう。『ハッピーアワー』で濱口メソッドの薫陶を受けた渋谷采郁がこの黛をえんじている点についても、むろん確認するまでもない。


そう、だから問題はやはり、バランスなのだった。単身ならば状況に見合わない、画面の調和をみだしてしまうような演技も、中間的なべつの演技者が配剤され、ぜんたいに「ながれ」をつくりだすのなら、それはもろとも救抜される。その意味で「悪は存在しない」――すくなくとも映画の演技においては。そういっているのではないか。とうぜんこれは濱口じしんの俳優演技論、ないし映画理解とも通底している。


逆にいうと、そうしたバランスがくずれたとき、状況はかぎりなく「悪に似る」。ここからもうラストシーンの解釈は可能なようにもみえるが、さきをいそがずに、こんどは作品のいっけんメインラインにみえるほう――演技の話ではない、自然と人為をめぐる寓話のほうへあらためて目をむけたうえで、作品が結果として演技の話に「なってしまう」点を再確認してみようとおもう。


重要になるのが、石橋英子が手掛けるメインテーマがながれるタイミングだろう。「泣けるようにかなしい」ストリングスが印象的なこの曲が作中ながれるのは記憶がただしければ四回で、これらが文字どおり作品の「主旋律」を形成している。それで以下はこの四回の内訳を順に確認してみる。


まず一回目。これは映画のオープニングがそう。ゴダール風の題字タイポに山本達久のきめこまかいドラムがかさなり、ついでギターの導入→ストリングスという順で曲が展開していく。画面上にはしらんだ空を差異そのもののような枝葉が埋めている、ちょうど森林のなかを歩きながら見上げているかのような「直上」をとらえた、ふしぎな移動ショットが連綿とつづく。やがてちいさく足音らしきノイズがインサートされると、楽音がパッと止み、カットが変わって森のなかを歩く巧の娘=のすがたがとらえられる。そこで花はちょうどさっきカメラが延々うつしだしていたものを確認するように、頭上をみあげる。


二回目。花の迎えをうっかり忘れていた(だがこの「うっかり忘れること」までもが、ルーティンのなかに組み込まれている)巧が、さきんじて学童を出た花を追って森へ入るその手前、一回目と同様の直上・移動ショットとともに音楽がひびく(ただし今回は導入のギターがなく、ここは記憶が不確かなのだが、たしか巧のものらしき足音が最初からインサートされていたのではなかったか)。ついで森のなかをすすんでゆく巧のすがたを真横からカメラがとらえ、スムースな移動撮影のさなか、視界が手前の丘陵でいちどさえぎられ、いまひとたび巧がすがたをあらわしたときには、すでにその背に花を負っている――という長回しのなかでの時間的跳躍もしめされる。それでふたりの会話がはじまるという手前で、楽音が急に切断される。


この段階でまず気になってくるのが、森のなかから上空をとらえた奇妙なオープニングショットだろう。一回目で花が空を見上げるショットを後置していたことから、それは花の主観ショットかとも一瞬おもわれるのだが、それにしては機械的でシームレスな移動撮影の感触が離反している(空の色合いもつながらない)。カメラポジションも不明瞭だし、そもそもが「直上をうつしつづける」という点が異様で、むしろなにか人知を超えたものの視点のようにもおもえてくる。だれでもないものが、だれでもないものを、世界じたいを撮っている――とすればこのショットは、むしろ「森=自然じたい」が自己を撮っている、とでもいうべきなのではないか。


もしそうだとするなら、あまり品のないやり方だというのは重々承知で、いったんはこのように極論してしまってもいいのかもしれない。本作ではカメラが、つまりは映画そのものが「自然」ないし森そのものなのだと。たとえば冒頭の、巧がうどん屋の旦那=三浦博之と水汲みをしているシークエンスで、道の中途に丘ワサビを発見したとき、それははじめ「丘ワサビの主観ショット」というかたちで巧の顔の正面ショットを見初める。それからさきにしめしたメインテーマの二回目=花と巧が森を同道するさなか、小鹿の死骸をふたりが発見するシーンでも、丘ワサビのばあいと同様、ふたりの正面ショットがインサートされることで、死骸と巧らが「切り返される」。あたかもカメラを介して森じたいに視線が付与され、その森が巧や花を対等にみているかのようだ――そんな感触がこうした場面には付与されていた。


ところで「正面ショット」といったが、巧については以上の場面や、花を迎えにいく車中、また説明会の場などで、正面からその顔をみすえられ、画の中心を占めるショットがいくつかあったようにおもう。他方、対岸の高橋については、黛とふたりでならんでいるとき以外、個として正面から顔をとらえられる場面がない。これはカメラがその「自然さ」を認めていないからではないか。あるいは「人為的な演技」の領域においては、正面のもつ意味合いが「建前」にすぎなくなってしまう、という逆説もあるかもしれない。「人間が表面=正面だけになる」リモート会議の場で、不服をあらわにした(=正面でいられなくなった)高橋は、タバコを吸いにフレーム外へ出ざるをえなかった点はすでに述べた。そうして高橋と黛が語らう車中は、それが正面=建前ではない本音だということをしめすよう、一貫して後部座席側からのカメラポジションが選択されていた。


話をもどせば、以上のような意味でまず巧は、単体で画角内におさめられることを許容された=「森と調和した」演技の行使者だという印象がつよまる。微妙なのが花だ。花もまたカメラ=自然の側から祝福されているようにおもえるが、好奇心がつよく、単身で森に分け入り、ウリハダカエデのように難解な植物の名もすっかりおぼえてしまっている花は、むしろ小鹿の死骸からも視線をおくられていたように、誘い/誘われる関係のうちに森と対峙しているような感触もある。


たんにクライマックスの展開から逆算してそうみえているだけにおもわれるかもしれないが、べつの典拠がある。それがいましめした二回目、巧と花の帰路のあと、巧の家でうどん屋夫妻や区長らとともに食事をしたのち、かれらが帰った直後の室内をとらえた場面。ピアノの前にすわった巧の後ろ姿が、花とその母らしき人物のすがたがおさめられた写真とともにしめされる。ついでソファでねむっている花の顔がうつしだされると、そこから画面が飛躍し、以降、森林を同道した場面のフラッシュバックのような、あるいは夢のような映像断片が無媒介的につづられていく。鹿の足跡。空を飛ぶ鳥。巧の持っている雉の羽根は同道場面で拾ったものとおなじで、ただしカメラ位置からしてそれは花視点の主観ショットにもおもえる。その当の花じしんをうつした正面ショットもしめされるが、それと切り返される鹿の親子が、はたして幻想か否かがわからない。どこかで花は鹿をみていたのかもしれないし、これは未来へむけられた予感や期待なのかもわからない。そうしてすでにみた、雉の羽根をひろったふたりが同道するおなじ帰路を、こんどはべつのカメラポジションから反復するとき、カメラがしずかに花のほうへとズームしていく。


時制も虚実もわからないシークエンス。これが花のみている夢ならば、それはおそらく自然にいやおうなく惹かれていく彼女の内心の直接の表現だろう。他方で最後のカメラのズームなどに感触されるのは、むしろ自然が花を(夢)みているのではないか、という予感でもある。花と鹿の親子が邂逅する物語の帰結部を、さきんじて映画じしんが夢みている――そんな印象すらもつ。


これだけでもう、森と花=「自然と人為」をめぐる寓話の導線にはじゅうぶんだが、さらにべつの可能性もかんがえてみる。これは巧がみている夢でもあるのではないか。森のなかで木々の名を、鹿の痕跡をつと教えるさきに、花と鹿との遭遇と共和=「バランス」を、巧じしんが夢みていた可能性はないか。のちに巧が、花からの妨害には目もくれず、もくもくと絵を描きつづけるみじかいシーンなどもあったが、そのようにかんがえるのなら巧は、ひとりの「自然な」俳優でありながら、同時に花という俳優を演出する芸術家=演出家=映画監督でもあったのではないだろうか。


だがさきにしめしたとおり作品の核心は、その夢みられた物語の帰結=自然と人為の調和・不調和如何にではなく、物語のべつのライン=高橋と黛の闖入による、「演技の自然と人為」の問題が食い込んでくることで、結末がずれてしまうことにこそ存している。


失調はメインテーマがしめされる三回目であきらかになる。ここでは一回目、二回目で反復されていた例の直上・移動ショットが不発で、うつされる対象もまた巧でも花でもない、水汲みの手伝いで森に踏み込んだ黛だという点からおおきな差異がしめされる。小川で水を汲みがてら、おもむろにみずから手酌で水をとり、口にふくんでみせる黛は、(「現職をしりぞいて大自然のなかで田舎暮らしする」という「役」へのこだわりを、すべて口に出してしまう高橋とは真逆に)ことばもないままに、しずかな自然への興味をしめしているふうにもおもえる。カメラはその存在にふと興味をしめしたかのように、黛ばかりをロングテイクで追いつづける。水のはいったタンクのおもさにたじろぎ、ひとつだけを苦労しながらはこぶ(そのかたわらを男ふたりが過ぎてゆく)ようすを淡々とうつしだすカメラには、巧がもくもくと作業するルーティンをとらえていたのと同様の視線が介在しているようにもみえる。


バランサーの黛を、自然=カメラは単身うつすに足る被写体として認めたということなのかもしれない。例のごとく忘れられていた花の迎えに同道するとき、くだんの小鹿の死骸からの主観ショットが、(かたわらにいた高橋ばかりを避け)黛にだけ適用される点からも、そんな感触がただよう。しかも花の失踪が判明するのは以下のような順だった――「巧が注意をうながしていた植物の棘に、血がしたたっていることに気づく」→「花とともにおとずれた鹿の水場へむかうが、そのすがたはなく、また鳥の羽根が拾われず落ちたままのことから、花はここには来ていない可能性がたかまる」→「おくれて合流した黛が手に傷を負っており、手当のためいったんの帰宅を余儀なくされる」。ここでは「棘の血」と「黛の手の怪我」とのあいだに、時間的な順序を無視した「偽のつなぎ」が幻視されてしまう――それで花と黛が「交換」されようとしているようにもみえてくるのだ。それで作品時間ぜんたいにも、異様なきしみが生じてきていることも知覚される。


高橋・黛の介在により花の捜索に遅延が生じ、また怪我を負った黛がひとり家に置きざりにされることで、映画の「バランス」がくずれる。そう、すでにいったように、高橋の人為的な演技が画面内で均衡をたもてるのはあくまでも黛がいるがゆえのことだった。その黛の不在はとうぜんバランスの崩壊を予兆する。同時に作品じたいが夢想していた当初の筋=「花と鹿の邂逅をつうじた、自然と人為の共和の可否」についても、高橋という闖入者による疎外をこうむる可能性がたかい。ギョーカイ的な紋切型がしみついた高橋は、水挽を再訪してのちも「東京暮らしに疲れ、田舎暮らしをはじめようとする男」のクリシェをみずからなぞるように、薪割りのあとは「気持ちぃ~」とセリフをわざわざ口にしていた。そのセリフ回しは作品にありうべきラストにはふさわしくない。それで「演出家」たる巧が最後にうごきだす――そういうことではないか。


霧のたちこめる丘の下方に、鹿の親子(親鹿のアップが模型で、それがかえって異様さ・幻想味をつよめる)と対峙する花のすがたがある。ふつう鹿はひとを襲わない、が、手負いのばあいはちがう――その前提となった会話を「受肉した」傷の存在も、クロースアップでしめされる。そうしてだしぬけに花が帽子を脱ぐ(=巧が説明会で「バランス」の必要性を述べたとき、高橋らにたいしてしたのとまったくおなじ行動)。ここで四回目、くだんのメインテーマが、こんどは一回目とおなじくギターから挿入される。ところがクライマックスの生起をよそに、巧はすでに「えっ」と、いまにも「余計なセリフ」を口に出そうとしていた高橋の首を絞めだす。「お前は喋るな」といわんばかりに。つられたようにカメラは巧と高橋のほうをロングでとらえはじめ、やがて高橋がこと切れたあと、巧が花のもとへむかうとすでに鹿のすがたはなく、鼻血をたたえた花がただそこにひとり横たわっている。


解釈を整理する。「自然な演技」をなす巧と花のあいだでは、自然との共生可能性=「バランス」をめぐる寓話がほんらい展開されるはずだった(=すくなくともそのようにみえた)。ところがそこへ「人為的な演技」を体現する高橋が闖入してきたことで、画面内で展開される演技レベルでの「バランス」がくずれる可能性が生じた。そこで巧はありうべき「バランス」をとりもどすために、高橋の首を絞め、その発語を封殺した。ところが「自然=カメラ」は、その巧と高橋のあいだに生じた、「演技の」自然と人為の共和不可能性のドラマが、鹿と花とのあいだに起きる共和不可能性のドラマを「代替しうる」ととらえた。だから前者のほうをうつしだし、それだけでもう作品の結末に「見合う」とかんがえられて、後者の顛末は不要となった。こういうことではないか。


こうして作品は「映画」と「メタ映画」という自然と人為までをも最後の最後で共立させてしまう。メタついでにいうなら、「自然と人為の寓話から、演技の自然と人為の寓話への代位」というプロセスじたい、(冒頭からいくどか例にあげていた)濱口の師のひとり=黒沢清がかつて得手としていた寓話のそれから、俳優演出を作品組成の中心に据えた濱口的な手法が摘出されていく経緯の寓意だった、ということもできたかもしれない。再三名前をあげた『カリスマ』や『蜘蛛の瞳』のような九〇年代黒沢作品の雰囲気がかしこにみられたのも偶然ではなかったとおもう(かんぜんな余談だが、黒沢の次回作が『蛇の道』のリメイクだというのにも、なにか因縁をかんじてしまう)。


本編内容をもうすこし確認してから終わる。花と入れ替わるように画面から見初められた黛は、寒さにたえかねてひとり巧の家の室内へともどっていくすがたをうつされ、それを最後に映画から退場する。一命をとりとめていた高橋は、花を連れた巧が去ったのちの画面に、息もたえだえになりながら、超ロング構図のなかではじめて単身すがたをあらわす。セリフをうばわれ、ふらつきながら霧のなかをさまよう高橋はここではくだんの人為的な演技をうばわれ、冒頭の巧がそうだったような「アクション主体」へと変化してから絶命する。かれは巧から「演出」をほどこされ、ようやく「映画的に」救抜されたということなのかもしれない。ただしそうおもうと、中和剤として投与されていた黛の存在、そうして高橋の顛末は、その中途中途に救済措置があたえられているとはいえ、どこかその配剤に「悪意」と呼ばれるにふさわしいものが感得されてしまうような気もする。たしかに演技にはその場その場の調和・不調和があるだけで、「悪は存在しない」。が、現実に存在している「人為的な演技」を見抜き、ときにそれを脱臭し、またときに付与しなおす俳優演出というものは、そもそもどこか悪意に似てしまわざるをえないのではないか――そんな気もしてしまう。


メインテーマは鳴りつづけている。ラストショットも冒頭ショットの反復で、くだんの森林そのものの視点のような直上・移動ショット。ただし時制は夜に変わり、周囲には霧がたちこめ、また月も出ている点がちがう。ほんらいあるべきだった結末とはべつのものが用意されたことで、世界法則じたいが変わってしまったのかもしれない。妙にぼやけた画面は、天上をしめしているのに、どこか水面のそれのようにもみえる――そういえば冒頭から一貫して川の水のようにながれつづけていたのが、この移動撮影だったこともふとおもいだす。だとするとやはり、自然そのものが映画だという見立てもまちがいではなかったのかもしれない。画面外には花を抱き、帰りを急いているのだろう巧の呼吸音がひびきつづけている。やがて音楽が止み、移動ショットも止まる。花の結末を代理された高橋が絶命したように、そこで花がこと切れたということだろうか。あるいは代理じたいがやはり誤謬とみなされて、ながれが止まってしまったのか。いや、たんに映画の終わりがしるしづけられただけなのだろう。そう解釈するのが、より自然だ。

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