哲学の素朴さ
私は永井均先生の著作とその一派のXを読んでもっと手軽に哲学できるようになった。
哲学といえば難しい響きなわけだが、自分とは関係ないの哲学とか、公園の哲学とか私はこういう日常的な疑問を哲学で楽しめるようになった。
難しいことを考えたり、難しい本を読んで他の哲学者の考えを学んだりすることが哲学だと思っている人はたくさんいますがそうではないんだと思い知らされた。
というのも、私も実は白状すると最初に永井均の本を手に取った時に私はこの人の哲学を知りたいと思って手に取った。
この人が何を考えて何を問題にしているのか、言うなれば思想を知識として知ろうと思ったのだった。
だから、実は本を買ってすぐ半分程度まで読んで、「なるほど、考えてることはなんとなくわかったが、私にとってはあまり重要ではないな」と思って放置していた。
本の内容そのものが難しかったのもある。
この本の中で使われる独特の言語があったために、絶えずその定義を思い出しながらでないとなかなか話がつかめずちょろっと読んだだけでは一向に「理解は」できなかった。
つまり、この人が何を考えようとしているのか最初の問題意識だけは理解できたが、中身までは分からなかった。
しばらく放置したのち、またちょっと読んでみたのだった。
そうすると、確かにこの人が言ったようなことは私は初めて読んで、なるほどと思ったし、なにより哲学の仕方を教わった気分だった。
それまで、おそらくみんなが思うように哲学とは過去の偉大な哲学者の業績や古典を膨大に読んでその上で緻密にされるべきものだと思っていた。
もし、自分の考えてることが過去の人間の考えていることと同じだったら二度手間になる。
あるいはお前程度の考えることなど、昔の哲学者がすでに考えて答えを出している。みたいな冷笑もあったと思う。
しかし、今となっては仮に私の考えていることを昔の誰かも考えていたのだとして、それはその哲学者に並んだ気分で誇らしいと思うし、少なくとも結果や問題意識が同じでも考える過程やらはきっと違うだろう。
私にとっては昔の哲学者が何を考えていたか?はもはやどうでもよくなり、あとは使える手法があればラッキーだみたいな感じになっている。
そして重要だが、永井均先生の本からは哲学とは何か悪いことが起きてそれをどうしようとか解決しようとかって始めるものではない(世間一般は何かとこうする)ということを学べた。
世の中の人が大抵考えることを始めるのは悪いことや何かしらの社会問題が起きた時である。
そうではなく、もっと素朴なしかし自分にとって重要なことを考える必要がある。
私は大学人文系の人はそれほど面白いと思ったことはないのに、永井均先生とその一派は本当に面白いと思う。
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