表現の自由戦士とツイフェミの奇妙な連帯ー呂布カルマの炎上
私は表現の自由戦士の中でも、とりわけオタクというのはほとんど信用ならないと思っていて、私独自の呼び方ではあるが絵表自と呼んでいる。
表現の自由戦士の中では普通に考えてそんなにオタクでもなんでもない私の方がむしろマイノリティであって、絵表自の方がよほどマジョリティであろうと思う。
ところで、お前は覗きを許すのに(過去の呂布カルマのポストによる)駅の気持ち悪いのは許さないのか的なポストがあって、私はそのポストに絵表自とツイフェミの連帯を見るのである。
一見すると絵表自は基本的にはアンチフェミニストであってツイフェミと敵対しているように見えるが、実際には多くの場合において連帯していると感じているのだ。
彼らが対立しているのは絵についてのみであって、それ以外ではつまり現実の女性の問題に関しては意見が一致しているということだ。
よく、性犯罪などが起きるとアンチフェミニストたちがフェミさんはこれに何にも言わないの〜?みたいなフェミだんまり煽りをすることがあるがあれも同じことである。
要するに、絵表自もツイフェミも現実の性犯罪を厳しく取り締まることに対しては全く意見が同じであって厳罰化を望んでいる。
例えばジュニアアイドルはありかなしか?といえば絵表自もツイフェミも無しというであろう。
しかし、このような連帯はなぜ起きるのか。
絵表自というのはつまり現実の女性を差し出すことによって、でも絵はいいよね?と言って譲歩を求めているに過ぎない。
ジュニアアイドルの例で言うならば、現実の女性でジュニアアイドルするのはダメだけども絵ならばどんなにロリでも構わないでしょというわけである。
これは一見すると正論のように感じるかもしれないが、端的に言うと現実のジュニアアイドルが禁止された以上の意味を持たない。
ところが絵表自というのは、現実はダメだが絵はいい。以外の主張がない。
しかし、ツイッターフェミニストからすれば現実は規制できた、次は絵だ。となるわけである。
この構造に気付いたり指摘している人は少ない。
そもそも性犯罪やら現実の(特に未成年)の性を規制することに反対する人間はもはや異常者と見なされるのであってそんな意見大っぴらに言う人がいない。言ってもメリットがないからだ。
ツイフェミと絵表自のゴールは現実世界では同じである。
しかし、現実を差し出したからといって絵の世界の表現は守られるだろうという、激甘な考えの絵表自は要するに本当の本当に絵が規制されるまで目が覚めないのだろう。
むしろ現実の表現を守ることがそのまま絵の表現を守ることにつながることを理解せず、むしろ現実をより厳しく取り締まれば、それに比べたら絵なんて大丈夫でしょうとたかを括っている場合ではないのだ。
犯罪を取り締まるというのは、当たり前のことである。ただそれ以上でも以下でもない。
そこにある犯罪を特殊化したり、その犯罪を厳しく裁くことで別の何かを見逃してもらえるなどと考えることは本当に何にもならない。