電車隣に座る問題と世界の潔癖化

またくだらない炎上が起きているなぁと思い眺めているわけですが、つまり人間の不快耐性特に日本人の不快耐性はコロナ禍以降急激に下がっているわけです。

そもそも隣に誰が座るかどうかで立ったり座ったり席を入れ替えたりしてること自体珍妙としか思えず(そんな人を私はみたことがない)だったら最初から立っていればよいのではないかと思う。

前提として、結構空いているというのが=ガラガラと認識されているが、東京の電車の結構空いているがガラガラな訳はないでしょう。
例えば席がそこそこ歯抜けのように空いている状態かつ誰かの隣には座らなければならないような状況というのを結構空いていると認識してもおかしくはない。

まぁこの前提を加味した上で、誰の隣に誰が座るかなどというのは基本的にはどうでもよいわけです。
むしろそんなことはどうでもよいのです。
肝心なことは、そこそこの数の人間がもはや隣に誰が座るかどうかが気になって気になって仕方がないということなのです。

むしろ、そんなことを気にするようになってしまった世界の方を気にするべきなのです。
なんでそんなことが、どうしても許せないのかそれでなんの不利益があったというのか
誰も何にもないわけです。隣に座っただけなんですから。
私はこういうのを被害加害フレームで理解するようなことはやめるべきだと思っています。
最近ではあらゆる物事に対して被害加害で語ろうとする人が増えてますが、被害も加害もないケースがほとんどです。

不快耐性が下がると世の中のありとあらゆることが気になって許せなくなって人生が不幸になります。

ですので、皆さん世の中をもっと汚く混沌とさせていこうではありませんか。

それと、いいねやフォローありがとうございます。

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