幸せになることより幸せでなくてもなんとかやっていく方向に舵を切ったら

私はポジティブシンキングというのが生来合わないようであり、幸せの総量を増やして人生を愉しむという路線では生きられないようであった。

何度も自分を変えてみようと思ったが、それは全く叶わなかったのである。
なんでも幸せと思ってしまえばよいではないか、と考えてみたこともある。ご飯食べて美味しい幸せ好きな人がいて幸せ、友達がいて幸せなどなど。
こうやって生きられたらどんなに幸せだろうと思う。

だけれども、こういう幸せは私の人生の初期の段階で完全に潰えてしまった。
それは私の家庭環境が影響していることは言うまでもない。
しかし、私は今更になってそのようなことに怨み節をかましたり、毒親だの親ガチャだのと言うつもりは全くない。
親には親の事情があり、分け与えられるリソースも限られていたのだから仕方ないのである。

そんなことよりも、それはそれとして私は生きていかなければならないのであってそっちの方が私にとってより重要であるからだ。

親ガチャや毒親という言葉はいずれにしろ、我々の期待が大きすぎるから生じるのだ。
親ならこうして当然、あーして当然。できなければ毒親だのと言う。

それらはいずれにしろ変えられない。私は反出生主義者になれないことは昔の記事で書いた。

諦めろというのか、というと全くもってその通りである。
これを諦めるということがいかに切ないことであるのかというのは私も知っている。
しかし、それでも人生の早い段階で親に対する諦めや一歩引く態度を取れるかどうかということは私は人生の成功に対して非常に重要なのではないか?と直感している。

我々はもちろん、親の事情なんぞ知らずに生まれてくるわけである。
それが虐待親かもしれないし、資産家かもしれないし、貧しい家かもしれない。
それは選べない。だから、親ガチャや毒親なんて言葉ははっきり言えばある種の正しさを持つことは否めない。

しかし、この場合の正しさが人生を豊かにすることは、ほとんどないのではないかと思われる。
この場合でなくとも「正しい」ことが必ずしも幸せや豊かさを呼び込むかというとこれは微妙である。

正しさよりも生き抜くことの方がより重要なのだから、そんなことにこだわっている余裕など普通の人よりも無いはずである。
正しさを捨てると今度は幸せになりたいという思いが芽生えてくる。
しかし、これもまたよくない。とくに幸せは今の時代効力が短い上に人と比べられること数多である。
人と比べない!みたいな安直な話で収まるほど簡単な話では無い。

幸せをあきらめて日々生きるということは、そりゃあドラスティックなものではありませんが、代わりに意外と辛くもないのですよ。
なにせ、文句が出ませんから。そしてそのことが実は一番幸せに近いのではないかと私は考えているのです。

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