オキナワンロックドリフターvol.117

2009年春。大学2年生になった。
正直、今までの不運の分が幸せになり、それが満期になって一括払いをもらったように幸せ過ぎたのが2009年の春から9月にかけてだった。
学内奨学金に採用され、バイト先にも友達ができ、資格試験もいくつか受かり、大学の帰りに寄る行きつけの店ができたり、かわいい後輩もできた。
が、バイト先には不穏な空気が漂ってきた。バイト先の先輩たちの一斉退職だ。
リーダーとサブリーダー的存在の先輩ふたりは大学4年次ということと2年以上勤務したことで比較的円満な退職だったが、社会人2名、学生3名は逃げるようにバイトを辞め、そのうちふたりは無断欠勤した挙げ句の退職なのでたまたま大学の授業が休講になり、様子を見ようとバイト先のカフェに寄ったら誰もおらず、オーナーの赤星さん、新しくバイトリーダーになった草壁さんという方に連絡したところ、交代要員がくるまで店に出てと言われ、半狂乱でワンオペ状態で委託販売しているカレーのオーダーを受け、カレーを温めたり、豆乳ババロアにかける黒蜜の仕込みをしたり、コーヒーのオーダーを受けた。
結局、閉店まで誰も来ないので朝10時半から閉店1時間後の夜20時まで休憩なしで働いた。
さらに、相次ぐ退職者の増加からか営業終了後の定例会議がやたら増え、終電を逃してネットカフェに泊まった時はさすがに赤星さんへの不満が募り始めた。
しかも、そんな時にカフェの主力メニューだったカレーの委託販売元のルーズさ(売れ残った商品を回収しない、注意しても「こちらで買いとってスタッフさんの賄いにしたら」となしのつぶて)も目立ちはじめ、それをきつく指摘したところ、販売元である赤星さんの友人がカフェに怒鳴り込んできて、彼女から胸ぐらを捕まれるという出来事が起きた。
草壁さんが慰めてくれなかったら、私もバイトを放棄していただろう。
吉報がやってきたのは5月のある日だった。
その日も私はワンオペ状態で仕事をし、辞めるタイミングを伺っていた。草壁さんも秋には辞めると私に打ち明けたので草壁さんのいないカフェで働くのは心細く、ひたすら辞めたいなあと願っていた。

コザ文学賞とれたらいいなあ。
もしとれたら夏の終わりあたりにスパン!と辞めて沖縄行こうかな?さっちゃん、清正さん、城間兄弟に会いたいし。そうだ、琉神マブヤーのショーも観に行きたいなあ。マブヤー役の知念さんのハイキックやオニヒトデービル役の平安さんの動きを生で見たいし。

コザ文学賞の結果がコザ漫遊国のブログにて発表されたのはカフェの店じまいをし始めた19時頃だった。
この日は仕入れた商品の検品もないから早くあがれたので帰り支度をしながら携帯でコザ漫遊国のブログをチェックしたところ、そこにはこう書かれていた。

【最優秀賞】

『想い出かき集めても』  mikeyさん (ショートストーリー部門)

私は静まったカフェで声にならない歓喜の声をあげた。

「コサイさーん。終わった?」
ちょうど心配して様子を見にこられた草壁さんに、私は飛び付かんばかりに「ちょうどよかった!草壁さんいいことがあったんだ!ご飯食べに行こう、奢るよ」とまくし立て、草壁さんをどん引きさせた。
ちょうどバイト代が入り、懐は暖かく、しかも10万円の賞金が入ることで気が大きくなった私は草壁さんを誘い、行きつけの沖縄居酒屋で夕飯をとった。

その夜は草壁さんとあれこれ飲み食いをした。私の話を聞いた居酒屋の大将はデザートにとサーターアンダギーをサービスしてくださり、草壁さんは目を輝かせた。
今は才能のなさを知り、諦めた夢だが、物書きになりたい、私の小説がなんらかの形で賞を取れたらと願っていた。ローカルの文学賞とはいえ、賞をとれたのは私にとって大きな進歩だった。
帰宅後、祖母にコザ漫遊国のブログを見せ、私の書いた文が賞をとったことを話すと祖母は手放しに喜んだ。
ああ、なんて幸せな日なのだろう。私は浮き足だった気分でお風呂に入り、眠った。
しかし、好事魔多しとはよく言ったもので、夜中に目を覚ましてメールチェックをしたところ、明らかに捨てメールアドレスにてねちねちと私の文を非難するメールがきたり、ブログに「コザはお前なんかが偉そうに語るような街ではない」というピンポンダッシュのような書き込みがあった。
気にはしないと思っていてもコザ漫遊国での結果発表から私のブログやメールアドレスに断続的に嫌がらせがきて、げっそりしそうになった。
さらにそんな中、沖縄タイムス中部支局の方からメールがきた。
受賞のインタビューをお願いしますとのこと。
できれば、来沖し、受賞式にて賞状を掲げた写真を撮影し、インタビューに応じて欲しいと依頼があった。
メールやブログにてきた嫌がらせから、私は、受賞式で満面の笑みで賞状をいただくも、次の瞬間、豚の血か山羊の血を浴びて、周りの人たちから失笑されるという、スティーブン・キングの「キャリー」のような仕打ちを受けるかもと不安になった。
今思うと大袈裟な!と笑いたくなるが、今まで何かいいことがあるとそれを気にくわない人たちから潰される仕打ちばかりされてきたので恐怖と猜疑心が膿のように吹き出たのである。

翌朝、私は祖母にコザ文学賞受賞のインタビューのオファーが沖縄タイムスという沖縄の新聞社からきたと連絡があり、受けようか迷っている。なぜなら受賞の発表から立て続けにメールやブログに嫌がらせがあるから不安だと正直に話した。
祖母は私を叱咤した。
「なんで怖じ気づくとね。妙なところで臆病やねあんたは!あんたは悪かことはしとらん。あんたの文章が認められたけん賞ば取れた。今後絶対ないことやけん堂々とインタビューを受けなっせ!」と。
今後絶対ないは失礼だなと思いながらも私は祖母の叱咤に後押しされて、沖縄タイムスの中部支局の方に一度は躊躇したインタビューのオファーを受けた。
ただし、授業があるので休んで沖縄に行くことはできないことを話し、メールを通してのインタビューとなった。
それから数日後、大学の清掃ボランティアのために阿蘇に出掛けていた私はムオリさんからメールを頂いた。
「まいきー、沖縄タイムスにまいきーのインタビュー記事が載っているよ」と。
私はムオリさんに記事のスキャンをお願いした。

だらだらとした私の発言がきちんと、なおかつ無理やりはしょられることなくまとめられた記事は記者の方の手腕の高さが感じられ、こういう構成力がほしいなと願った程だった。
さらに、コザ文学賞の審査委員長であるプロの作家の方の私の文に対する評も掲載され、私は誇らしさでいっぱいになった。
そして、2週間後、審査委員長のコザ文学賞応募作品への講評がコザ漫遊国のブログにて掲載された。

沖縄タイムスに掲載されていたバージョンではカットされていたが私の文はかなりダメ出しをくらっていた。
主なダメ出しは文章の詰め込みすぎだ。ジミーさんへの想いを書こうとそればかりが先行し、作品のバランスが崩れているというのがプロの作家の方視点での私の文章への評価だった。
かなり図星だったので堪えたが、それでも夜のコザの情景描写に関してはお褒めの言葉を頂いたので私は調子に乗り、勉強の合間にいろんな公募にこそこそと挑んだ。
しかし、コザ文学賞受賞はまぐれなんだよ、思い上がるなと言われるかのように落ちまくり、よくて二次選考止まりに終わった。

(オキナワンロックドリフターvol.118へ続く……)

(文責・コサイミキ)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?