過去と未来をつなぐモノ
過去と未来はつながっています。
上の画像は静止画像です。
時間は構成要素に入っていなません。
が、ぼくたち人間は時間を想像することができるので、左から右へ時間が経過しているように感じます。
想像することができると、感じるんですね。
不思議ですが。
そこに時間は存在しないのに。
種から芽生えた若芽は時間の経過とともに成長して葉っぱを殖やし、やがて花を咲かせます。自然現象であり、生命のありようです。
「生命のありよう」の中には時間が構成要素として含まれています。だから本来、一枚の静止画像に生命のありようを描写することはできません。
ところが人間は「生命のありよう」を描写する。
描写できるように感じる。
けれど、描写は機械にだって出来るんです。
機械にできないのは、描写から「生命のありよう」を感じること。感じるときに、人間が「生命のありよう」を補っている。
「生命のありよう」を補って想像し、生命を感じる。
つまり、想像は創造です。
もちろん、「生命のありよう」が感じられないような描写も存在します。想像をもって補いようがないような描写も数多くありますし、むしろそちらが大多数。補いようがある描写になるには、厳しい条件をクリアしないといけないのですね。
この条件を明示的に示すのは難しい。
経験に培われた直感を要することが多い。
アーティスト、芸術家、作家といった類いの人間は、この「条件」をクリアした描写を目指す者。
そうした「条件」を満たすことを指して“創造”あるいは“創作”というのが、普通の言葉の使い方です。
一方で普通でないほう、「生命のありよう」を補う想像(創造)のほうには名前がありません。
「生命のありよう」を補うこともまた、生命のありようです。
「条件をクリア」することより、ずっと普遍的で根源的。
過去と未来はつながっています。
種は発芽して若芽を芽吹かせ、陽の光を浴びて成長してやがて花を咲かせる。こうした現象は時間の流れに沿って現れますから、過去と未来はつながっていると言うことができる。
ただ、こうした「過去と未来のつながり」は人間がいなくて起きます。
人間がいないと起きないのは、過去と未来とをつなぐこと。
人間の方法でつなぐ。
上で掲げたイラスト画像は、人間の方法の一例です。
人間が観測する過去と未来の間には、
「(自然に)つながっている」
ところと
「人間がつなげた」
ところが混在しています。
混在していて区別がつかない。
なぜなら、「人間がつなぐ」こともまた、人間にとっては自然だからです。他の生命にはできない芸当でも、ヒトという生き物は自然にやってのける。ならば、ヒトがヒトであるかぎり、どちらも自然なこと。
人間は、過去と未来とをつなぐ「方法」をいくつも創造してきましたし、これからも創造し続けるはずです。
ところが、人間のあいだで、はなはだ奇妙な現象が起きています。
それは、人間が創造する「方法」のひとつが他の方法を圧迫して、人間が本来持っている「創造の自由」を奪うという現象です。
皮肉なことに、創造の自由を奪っている方法が“自由”という名で呼ばれている――こうしたことは、人類の歴史にはしばしば起きることですが。
過去と未来とをつなぐ、人間社会の中でもっとも普及した「人間の方法」。
すなわち、貨幣。お金です。
お金は人間の創造物です。
ここでいう「創造」は、普通の方の意味ではなくて、普通でないほう、すなわち〈ワンダー〉の方。
「人間の方法」として、より普遍的な方。フリードリヒ・ハイエクが言ったように、自生的秩序です。
それがなぜ、その他の「人間の方法」を圧迫することになるのか。
次回、語ってみたいと思います。
感じるままに。