世界平和へのビジョン
ZOZO前澤氏のテキスト見ました。
面白い。
頼もしい。
なにより共感を覚えます。
ぼくの関心のど真ん中でもあるし。
でも、ちょっと言いたいことがないわけではない。
「平和にする方法」というタイトルだけど、この内容では「方法」とは言えないよね。
「月に行くにはロケットを打ち上げればいい」
この言は方法論的な言い方だけれど、ロケットについての具体的な技術がなければ方法とはいえない。あくまでイメージの範囲でしかない。
前澤氏は大成功している事業家なんだから、「イメージ」と「ビジョン」の違いはわかっておられるはず。「イメージ」をリアリティある具体性へと練り上げて行ってこそ「ビジョン」になる。
こちらでも
「イメージ」を具体的に語ってはいるけれども、その「イメージ」を実現させていく「ビジョン」については語っていない。
とはいえ、それが前澤氏の限界だとは思わないし、思いたくない。氏の事業として、「お金のない社会 ⇒ 世界平和」を遂行していって欲しいものだと、大いに期待するところです。
ついては、僭越ながら、ぼくが抱えている「ビジョン」について語りたいというのが本テキストの趣旨です。おおざっぱにですけれどね。詳細は書きかけですが、上掲マガジンにて。
★ お金をなくすことはできない
いきなり前澤氏の「イメージ」を否定してしまいますが、お金をなくすことはできません。
なぜなら、人間の情報処理能力は有限だからです。
お金というのは、zipファイルのようなものなんです。この世界にはさまざまな意味、さまざまな価値があって、そのどれをとっても尊いものだけれど、それらを受け容れる(処理する)には膨大な情報処理能力が必要。
人間は無限の情報処理能力を持つ存在として神を想像したけれど(全知全能)、実際の人間はそうではないから、より多くの情報処理を行うために情報圧縮技術を開発した。
この技術こそ『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリ氏がいうところの「認知革命」です。情報圧縮なしでヒトが処理できる情報量は、150人規模の社会でしかない。なのに実際は、何十億という数の人間によって、ぼくたちの社会は構成されている。
もし、お金をなくすなら、人類は150人規模の集団が乱立する社会にまで立ち返ることになるけれど、そうなると、また戦争の歴史が繰り返されることになる。
それでは本末転倒です。
★★ お金をお金でなくすことはできる!
お金とは「譲渡できる負債」、すなわち「信用」です。「圧縮された情報」が「信用」を獲得して多様な人間を秩序づけているのが、現行の貨幣経済。
前澤氏がいうように、そうした貨幣経済が人間にさまざまな苦しみをもたらして平和を乱すことになるのは、「圧縮情報」=「信用」=「価値」になってしまっているから。
本来、人間にとって意味があり価値があるのは、「圧縮されない情報」のはず。そこを直観するから、「お金のない社会 ⇒ 世界平和」のイメージが見える。
けれど、お金はもっともスマートな圧縮技術です。『サピエンス全史』によるなら“最強の征服者”。宗教も国家も「圧縮技術(情報)」だけれど、お金にはかなわない。
考えるべきは、圧縮情報/信用/価値のトライアングルをどうするかです。本来の価値は「圧縮されない情報」にある。けれど、圧縮が為されないと秩序が維持できない。ジレンマです。
この三者のトライアングルの中で、キモになっているのは、信用のあり方。負債が譲渡可能になって信用になっているというあり方。信用のあり方は、この方法しかないのかどうかが問題。
ぼくは別の方法があると考えるし、そここそがぼくが抱く「ビジョン」の肝要です。「信用」の形が別の形になれば、「圧縮情報=価値」の軛から逃れることができ、ひいては世界平和へ社会は向かっていくと考える。
資本主義とは、元来負債である「信用」を、投資という形で未来の発展へと生かしていくシステムです。「負債」を「投資」へと転用することを可能にしたのは、「(マックス・ウェーバーがいうところの)エートス」。このエートスのおかげで資本主義は誕生した...社会学のいうところでは。
しかし、転用はあくまで転用です。ゆえに、発展が高まるほどに負債の「負の効果」も深まることになってしまう。
譲渡可能な負債という側面で見ると、戦争とは、積もった負債をチャラにする「イベント」という見方ができる。そして、そうみるならば金融危機だって「イベント」だし、企業の倒産だってそうだといえる。誰かが財産、ときには生命を差し出すことで、社会の大きな負債をチャラにするわけです。
とんでもないことだけど、これは「信用=譲渡可能な負債」という性質に根差しています。だったら初めから「転用」の必要がない「信用=譲渡可能な投資」という形のお金をデザインすればいい。
そうなれば、お金は【お金】ではなくなる。
★★★ ゲゼルマネー(腐るお金)
最初から「譲渡可能な投資」であるようなお金の形。それはシルビオ・ゲゼルが考案した「減価する貨幣」です。
なぜ、そうなのか、ここでは詳細はしません。以下のリンクを読んでいただければ、直観できるはずとだけ、記しておきましょう。
ゲゼルマネーは、現行貨幣が持つ4つの機能(価値の尺度・支払・価値の蓄蔵・交換の媒体)のうちの、「交換の媒体」としての機能しか持たないものです。
腐りつつ(減価しつつ)交換の媒体をするのがゲゼルマネーですが、これが「譲渡可能な投資」となる。本来的にマイナス金利のマネーは、投資によって減価を遅らせることができるからです。
★★★ システマチックに「課題の分離」が促される!!
ここから先は、アドラーの心理学を援用させてもらいます。アドラーは、「幸せになる勇気」を獲得するためには「課題の分離」が不可欠だと説いています。
そのことを念頭に、下図を見て頂きたい。
経済学を少しでも学んだことがある者なら誰もが知っているはずの、需給曲線。需要曲線と供給曲線の交点で価格が(システマチックに)決定されるのだという近代経済学のセントラルドグマです。
この図を、「供給者の課題」「需要者の課題」という観点から眺めてみればどうか。価格の均衡点とは両者の課題の融合点に他なりません。
ここには「それなり」の合理性があるのですが、「それなり」の基盤になっているのが貨幣の機能のなかのひとつ「価値の蓄蔵」です。
では、その機能がなければどうなるか。前澤氏のテキストから拾ってみます。
なんでも無料になったら、みんな取りたい放題、使いたい放題になって、モノが足りなくなって奪い合いの暴動が起きるのでは?
最初は興味本位で必要以上のモノを持ち帰る人がいるとは思いますが、自分に必要のないモノを持ち帰る意味がないことにすぐに気づきますので、そういう人は必要最低限のモノを感謝や敬意の気持ちで持ち帰るように変化すると思います。食べきれない食料を持って帰っても意味ないので。またモノが足りなくなったら、みんなで作ればよいと思います。地球上の資源や食料は、自分に必要以上のものを求める人や企業によって過剰に消費され、結果余らせ捨てられているのが現状です。企業は利益をあげるために、無理してモノを大量生産し、在庫まで余らせて商売をしてきましたが、お金のない世界ではもうそんな必要はありません。人々が本当に必要なモノを、最低限の資源で効率良く生産すればいいのです。
ここで前澤氏での前澤氏の回答は、「課題の分離」という観点からみれば、「供給者の課題」と「需要者の課題」とが分離されている姿です。お金がなくなれば、おのずと両者の課題は分離されるのだと前澤氏は「イメージ」します。ぼくのこの「イメージ」に賛同します。
そして、ゲゼルマネーは「交換の媒体」の機能を持つ。すなわち「圧縮情報」ではある。なので、情報処理能力有限の人間でも、このツールを使えば今までのように「大きな社会」を維持することができる。いえ、今までとは違った「大きな社会」です。
★★ 「価格=価値」を自己決定することで、社会は維持される
ゲゼルマネーにおいても価格は存在します。ただし、「マーケットメカニズム」によってシステマチック&オートマチックに決定される価格ではなく、供給者・需要者がそれぞれに価格交渉を行う「バザール」によって。
価値の蓄蔵が不可能なシステムにおいては、相手の信頼を獲得することが自ら(の将来)にとって有利になります。だとすれば、「バザール」で経済活動をする者には、相手の信頼を獲得できるような価格決定を自ら行なうことが要請されるようになる。
「バザール」は「マーケット」よりも手間暇がかかります。しかし、手間暇を掛けることにこそ意義がある。手間暇を掛け、価格を相手の(納得も得て)自己決定することは、価値の意味づけに大いに関わってきます。
人間にとって価値があるのは、本来は「非圧縮情報」です。ゲゼルマネーであっても、その情報は「圧縮情報」にでしかない。しかし、ゲゼルマネーでは、「圧縮情報」に信用と価値がおかれることが構造上不可能です。
そうなると、人間はどうするか。現行貨幣であれ、ゲゼルマネーであれ、人間は圧縮情報を「解凍」して価値を感じようとしますが、圧縮された方に価値をおく社会的な圧力がなくなれば、おのずと非圧縮情報の方に価値を置くようになる。これは人間の持って生まれた本能に根差しているといって好いでしょう。
いいかえれば、現行貨幣システムは、人間の本能的な価値創出システムを社会的に抑圧しているのです。この阻害(マルクス的に書くなら「疎外」)から解放されれば、人間は本来持ち合わせている〈生きる〉力をそれぞれに発揮していく。
この「それぞれ」とは個性ですが、個性とは、情報圧縮に準えていうならば「解凍」の仕方です。コンピュータの世界では元通りのデータへ復帰する正確度が問われますが、人間の世界においては元通りである必要などさらさらない。むしろ「エラー」があったほうがいい。「エラー」こそが個性であり、「エラー」があるからこそ創発・イノベーションも生まれる。
ゲノムに拠らずして発展する人間の特性は、言語や貨幣といった圧縮技術からの「解凍」の仕方における差異(個性)に依存しているといっていい。
★ ベーシックインカムとブロックチェーン
腐っていくゲゼルマネーがIT技術と親和性が高いのは、容易に想像がつきます。また、減価していく分を均等に再配分していけば、それは自動的にベーシックインカムとなる。
ゲゼルマネーのベーシックインカムと現行貨幣のベーシックインカムとでは、心理的意味合いはまったく異なります。負債を強制的に再配分するのは相当に暴力的な話です。この潜在的な暴力の行使は争乱の火種にはなっても、平和を育んで行く土壌になるえるとは、ぼくは思えない。
この点も、前澤氏と「イメージ」は一致するようです。
そして、ゲゼルマネーの社会への実装は、ブロックチェーンの技術を用いるのが良いだろうと想像します。「腐っていく仮想通貨」です。
ブロックチェーンは記帳の動的相互チェック技術です。そこにもうひとつ、「腐る」という動的要素を加えればいい。現代の技術水準では実現可能だと想像をしています。
☆☆ 「システム」を選択する時代
ぼくたちが現在暮らしているのは「プラットフォーム」を選択できる時代です。IT技術はさまざまな「プラットフォーム」をぼくたちに提供し、ぼくたちの「選択の自由」はその分、増えた。ですが、残念なことに、それが〈しあわせ〉には直結していない。
それは、現行のお金の縛りがあるからです。マーケットメカニズムはぼくたちに「課題の融合」をシステマチックに強いてくる。この軛から逃れるには、十分に稼ぎを得ることができる成功者にならなければならない。それともあるいは、宗教的ともいくべき「悟り」でも得るしかない。
そこに、価値を自己決定しなければならない面倒はあるけれど、「課題の分離」を促してくれるシステムが登場すればどうなるか? 未だ登場に至らないでも「イメージ」が見えればどうなるか? さらには「ビジョン」が見えれば――。
これは、歴史を振り返れば、かつてマルクスが提供したのと同様の「大きくて新しい物語」だろうと思います。かつてのそれは失敗に終わりました。テクノクラートが策定する計画経済より、貨幣が自動生成する経済の方が優れていたからです。
しかし、マルクスが本当に夢想していたのは、それとは違うような気がします。
「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」
この言もまた、需要者と供給者の課題分離が為されたイメージだと思いますが、いかかでしょう。
各自がそれぞれに「課題の分離」を為し、「幸せになる勇気」をごく当たり前に持つことができるようになった世界が、平和でないはずはない――もう、ここから先は言葉を続けることはないでしょう。
(ヘッダー画像は、こちらから拝借しました)
感じるままに。