『生きるための論語』

これまでも幾度が取り上げてきた本ですが、「#推薦図書」ということで、改めて。


そも、「生きる」ということは、どういうことか。

「生きる」という言葉(が指し示すもの)は、誰もがなんとなく理解はできるけれども、なかなか明確にイメージすることは難しいものです。

「死んでいないこと」「死なずに生き延びること」も「生きる」ですが、ここでいう「生きる」というのとはニュアンスが違う。

東アジア最重要の古典『論語』。この書物には、人間が真に自由に、生き生きと存在するために必要なことが、最高の叡智と具体的な言葉で書かれている。『論語』自身に『論語』を語らせ、そのダイナミックでみずみずしい世界に読者を案内すると同時に、その思想が儒教の伝統の中に生き続け、さらにはガンディー、ドラッカー、ウィーナーたちの思想と共鳴しあう姿も描き出す。「最上至極宇宙第一の書」に対する魂の読解書。

上は本書の内容紹介ですが、「生きる」というのは「人間が真に自由に、生き生きと存在する」こと――と、言われても、じゃあ、「真に自由に、生き生き」ってどういうこと? という疑問が湧き上がります。

その疑問に、具体的に答えているのが『論語』だということが本書の記すところ。そしてその具体性が、そのまま最高の叡智になっているのだ、と。


『論語』のイメージというと、まずもって「道徳」でしょう。

例えば、親孝行の「孝」。儒教の体系では、親への孝行は人間が最も重んずべき徳目として挙げられていて、親孝行しない人間は小人や愚人として見下されることになります。

いえ、「なりました」と言った方がいいか。そうした道徳体系は、現在では古い時代のものというイメージになっていますから。

『論語』というとそうした古いイメージの親玉であって、『論語』を持ち出しただけで説教臭い感じになってしまうし、実際にかつては説教のための権威として用いられてきました。

また、『論語』の解釈・解説の本も多くはその線に沿って書かれていた。『論語』を権威として扱うということは、中国という文明が社会を統治するための基本方針に沿っている。日本も後に(江戸時代から)、その方針を採用します。


ところが、本書に導かれて『論語』にアプローチすると、その基本方針は『論語』そのもののものではないことが理解できます。

例に挙げた「孝」でいえば、それは、健全に生育した人間が自然に示す現象(振る舞い)として記述されている。

親が死んだら「三年之喪」に服す。
「三年之喪」に服することを徳として敷衍し、社会統治の手段とされてしまったのが「道徳」。でも、『論語』にはそんなふうには書かれていない。

子どもは生まれてから三年間は親の懐に抱かれて育つ(「三年之愛」)。そのようにして育った人間は親が死ぬと喪失感を味わうが、その期間もやはり三年くらいが標準である。

これは人間観察なんだと思います。「三年之愛」があったから「三年之喪」があるという、人間が後天的に学習していくこともふくめた習性を観察して、その観察結果を提示したのが『論語』。

「喪」というのは、喪失感の表明のことですね。けれど、この「表明」に際しては、嘘をつくことができる。本当は喪失感などないのに、そう表明することが道徳に沿っている、つまり社会的に有利だと見做されるようになると、ついつい嘘をついて、そのうち自分にまで嘘をつくことになってしまう。

ですから、こちらは昨日の記事ですが

このような主張を、従来の「道徳的な孔子」ならば否定をするでしょうが、『生きるための論語』の孔子ならば否定しないでしょう。それこそが自分に嘘をつかない「直」だと言うはず。

「直」は君子(儒教でいうところの健全な人間)に現れる現象です。君子でなはない不正直な小人は「慍(不機嫌)」という症状を示す。「毒親を許さなければならない」という「道徳」が、どれほど人間を「慍」にするかは、容易に想像が付くと思います。


中国は漢字の国ですから、人間の状態を示す言葉がたくさんあるわけです。たくさん種類があって、一つの言葉は一つの状態を示しているに違いないというところから『論語』を学術的に読んで、「道徳的」ではない合理的な解釈を探っていく。そうすると浮かび上がってくるのは、『論語』がまずもって人間観察の書であること、そして、観察から判明する人間の本性に従うように社会秩序を形成することを目的とする書。

けっして、統治者の都合の良いような「道徳」を敷衍しようとする書ではないことがわかります。


人間観察ということもうひとつあげれば、「礼」。「礼」というと、それこそ、もったいぶっているというか、人間の本性を(理性的に)抑圧するもののようにイメージしてしまいますが、『論語』いう「礼」はそのようなものではありません。

 人と人とのやり取りがうまくいくためには、実に見えないような微少なレベルの知覚と、それに基づいた調整が不可欠である。たとえばすれ違いざまに目礼するという礼を実現しようとすれば、視線を相手に合わせてタイミングをはかって、適切な瞬間に適切な角度で頭を下げなければならない。タイミングが早すぎたり遅すぎたり、おじぎが深すぎたり浅すぎたりすると、礼はぎこちなくなってしまう。相手の身体や心の動きを受け止め、絶妙のタイミングで絶妙の角度でお辞儀を決められたのなら、相手も同じように美しく頭を下げる。このときには、なんの命令も、なんの強制もなく、あなたは誰かの頭を思い通りに作動させることができる。
 この過程を実現するには、目に見えない微細な部分の調整を高度に稼働させる必要がある。コミュニケーションの難しさは、この微細な部分にある。

「礼」とは芸術的な身体の作動のことであると言いたくなるくらいですが、これこそが『論語』がいう「礼」であると、論語に論語を語らせて、つまり学術的に論証をしていくわけです。

こうした論証が学術的な領域を超えるのは、その論証の結果が学術的な経過を踏まえないでも、ぼくたち人間が「直」に生きるときに自然でてくるものだということが直観的に理解できるところにあります。

上の「礼」についての記述を読めば、そここそが生きたコミュニケーションだとだれもが直観できる。この直観に根拠を問われると困るけれども、そうした(芸術的)作動が自然に出てくることが「生きる」ことだと言うと、それもまた根拠なく「その通り!」と言いたい気分になります。

なぜそうなるのかはわからない、人間という生き物の「作動」の観察がここにあるという所以です。



子曰
 學而時習之 不亦説乎
 有朋自遠方来 不亦樂乎 
 人
不知而不慍 不亦君子乎

『論語』の冒頭、学而第一という論語のなかの論語、「小論語」と言われる『論語』の核心ですが、ここからして『生きるための論語』の解釈はユニークです。

どうユニークかというと、3つの句を一体のものとして解釈します。従来のものは、3つの句をそれぞれ「道徳的」なことの箇条書きのように解釈するのが一般的。

「学んだことを復習するのはヨコロバシイ」
「友人が遠方から訪ねてきてくれるとタノシイ」
「他人に評価されなくても不機嫌にならないのは君子だ」

二番目は素直に同意できますが、一番目はまこと「道徳」です。三番目もそうですね。承認欲求で溢れかえっている現代では、そうした「道徳」が持ち出されることも多々あります。


では、この三句を一体として解釈するとどうなるか。「孝」を例にして示してみましょう。

「学」というのは「孝」という概念を知ること。「習」はその概念が身体化されることです。

「三年之愛」の元に育った人間はすでに「孝」が身体化されているので、自然に「三年之喪」になる。知らずのうちに「習」は完了している。

ここで想像してみます。毒親のもとに育った者でも「孝」の概念を知ることはできます。けれど、「習」は難しい。毒親に育てられて蓄積した「慍」が「習」を阻むからです。

けれど、そうはいっても、たとえ毒親のもとで育ったとしても、「孝」はまったく無意味なものではない。できることならば、たとえ毒親であったとしても「喪」に服して喪失感を表明したいという気持ちはどこかにあるものです。人間という生き物の本能的な心身の作動といっていい。

それが、「慍」が何らかの理由で取り除かれて「習」に至ることができればどうか。遠くにいる友が訪ねてきてくれたような楽しさがあるのではないか。

そして君子は、人が(「慍」が阻害をしていたりして)「習」にならないものを見ても「慍」になることはない。親孝行を出来ない人間がいたとしても、それを「不道徳だ!」といって責め立てるようなことはしない。


もちろん、だからといって「君子になるべきだ!」というのではありません。そうなると、もはや「道徳」ですから。

その意味で、本書(及び本書の解釈する『論語』)は道徳否定の書のようにも読める。確かにカッコ付きの「道徳」は否定します。その部分は「必也正名乎(名を正す)」のところで解釈されていますが、偽りの道徳を否定するものではあっても、真正の道徳のあり方を否定するものではない。むしろ、そこを追い求めるものだと言えます。


真正の道徳を追求するための言葉の使い方。その第一に掲げられているのが、「言葉だけではだめ、身体化が必要」ということ。その上で、健全な人間(君子)が示す振る舞い全体を「徳」と呼んで、特徴をカテゴライズして「孝」や「忠」や「悌」といった言葉を当てはめて説明している。

呼び名がないことには、観察はできても伝達できませんからね。

『論語』の観察結果が伝わって「徳」の特徴を素直に学ぶことができれば、それが自身に欠けていることを認識することができる。その認識こそ「知る」ことの要諦だと教えてくれるのもまた『論語』です。

子曰 由 誨 女知之乎
 知之為知之 不知為不知
 是知也

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