『Man in the Mirror』
もう一度、Michael Jacksonを。
こんどこそ『Man in the Mirror』を。
もう、アクセル全開でも大丈夫 ♬
マイケルのパフォーマンスを観ていて思うのは、マイケルは、ちっとも伝えようとしていないということ。
伝えようなんて色気は、もはやない。
伝わると信じている。
信じた上で、自身のパフォーマンスに没頭している。
そりゃ、スーパースターなんだから、と思うかもしれない。
スーパースターなんだから、伝わって当然。
そう思うなら、いま一度パフォーマンスを見返してみましょう。スーパースターだからなんて甘えは、微塵もないことがわかるでしょう。
この厳しさこそ、スーパースターたる所以。
努力する才能。
伝えようとしていない。
伝わると信じている。
この違いは、微妙だけれど、決定的です。
伝わるメッセージに決定的な違いが生まれる。
マイケルはメッセージを伝えます。
I'm starting with the man in the mirror
I'm asking him to change his ways
自分自身から変わるのだ、と。
「伝えよう」なら、メッセージは「変わりましょう」。
「伝わると信じている」なら「変わることができる」。
前者は勧誘。後者は確信。
観衆はマイケルの確信に感応していています。ゆえの熱狂。「変わりましょうよ?」なんていう程度の生っちょろいメッセージでは、なかなかここまで熱狂したりはしないでしょう。
クリエーターは、「伝えよう」と思ってメッセージを発する。あるいは、「伝わればいい」と思いつつ発する。自分がそうなのだから、マイケルも層に違いないと思い込んでしまうと、弾かれてしまいます。
マイケルが巻き起こす「確信の渦」の中に入り込めない。そして見下す。
「なんてバカな連中なんだ!」
ま、ある意味でバカなことに間違いはないのですが...
「確信の強さ」は「抑圧の強さ」であり、「熱狂の度合い」は「抑圧からの解放の度合い」でもあります。
ここに一枚のDVDがあります。
1992年のルーマニア・ブカレストでのライブ。
見所は、マイケルのパフォーマンスはもちろんですが、観衆達の熱狂もそのひとつ。
彼らがどれほど抑圧され、また自身を抑圧していたか。その深さもよく伝わってきます。彼らにとって、Michael Jackson は宗教的な啓示だったすら言えるのかもしれません。
東西冷戦が終結し、ベルリンの壁が取り壊されたのが1989年ですから、’92年では、東欧であるルーマニアではまだ混乱のさなかだったはずです。日本でいえば、昭和20年代の終戦直後に相当するでしょうか。
なのに、このエネルギー。
いえ、「なのに」ではなく「なので」なのかもしれません。
現代の日本は、幸いなことに冷戦終結直後の東欧ほどの抑圧はありません。
決して安心ができない抑圧状態だけど、まだいくつか「ガス抜き弁」が機能しています。著名人のスキャンダル叩きとか。モンスターと化して各方面へクレームをつけるであるとか。国内、国外の政治状況をネタに、左右に分けれて攻撃し合うとか。
今のところはこれら「ガス抜き弁」はそれぞれバラバラで統合が取れているようには見えません。バラバラは効率が悪いのですけれど、どこか一点に集中するよりはずっと危険度は低い。
懸念しているのは、お隣の国の「集中」に触発されて、日本でも「集中」が起こりかねないことなのですが...
いずれにしたって、ぼくたちもどこかで change our ways しなければならないことは間違いありません。
どうせ change するなら、大きなことのほうがいい。けれど、大きなことはハードルが高い。”change” の大きさに対して、ハードルは幾何級数的に高くなっていきます。
だから、まずは小さなことでいい。地下鉄のなかで迷っているようなお年寄りを見かけたら声をかけてみる。そんな些細なことからでいい。
そんな些細なことでも、いざとなると、ひとりではなかなかハードルは乗り越えられないものだったりします。
そんなときには唱ってみるといいかもしれません。
私の敵は私です
ファイト!
闘う君の唄を 闘わない奴等が笑うだろう
上の動画、歌い手は佐藤玖美さんという方。
みゆきさんは「ファイト!」の当事者のように唱いますが、佐藤玖美さんは「ファイト!」な者を見守るマドンナのよう。
好きになりました。
感じるままに。