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三脈の法

今夏は、いつになく自然災害が多い感じがします。

7月の西日本の豪雨
全国的な猛暑
先日の台風21号に、北海道の地震。
地震といえば、6月に大阪でもありました。

日本列島はもともと自然災害の多い土地ではありますが、それにしても、、、という印象を持ちます。地球そのものが活動期に入っていて、自然災害が頻発する流れになっているという言説もあります。温暖化の話もありますし。


地球が活動期に入っているという話は、科学的な衣装をまとっていますが、中身はまだ科学ではありません。科学的な仮説というのが正確なところで、それは温暖化についても同じ。

人類の知恵では、まだまだ及ばないところが多い。なにより、「科学」という衣をまとえば信憑性が高くなるという現象が、科学的には未だ未解明の現象だったりします。

科学というのは、「ブランド」です。
ぼくたちは科学の恩恵に大いに浴してはいるけれど、科学という営為に直接関わることはなかなかできない。

科学者というのは、ブランドを支える職人さんたちのようなもの。だれもが職人になるわけにはいかないし、なれるわけでもない。

ただ、科学的かどうかはさておいても、いつも通りの日常がある日突然に様変わりしてしまう危険性が高まっているようには感じる。
生命に危機が及ぶ可能性が高くなっているような気がします。


では、どうすればいいのか。

ひとつは備えをすることです。
食糧や水や、救急のための物資を備蓄しておく。

けれど、それとても生命をつなぐことができればの話であって、本当の危急の場面では役に立たない可能性がある。

危急の場面で生死を分けるのは、とっさの判断だったりします。「野生の勘」とでも言えばいいか。それとも「運」と言えばいいのか。科学的にいえば「偶然」でしょうけれど。



三脈の法は以前紹介した記憶がありますが、この機会に再度。

要は、三カ所の脈を同時に診るというもの。
ヘッダー画像が、そのやり方です。

右手で左手首の脈をとって、左手で首の両脇の頸動脈の脈をとる(逆でもいい)。

科学的にいうならば、身体の血流のポンプたる心臓は1カ所しかありませんから、脈をどこでどうとっても心臓と同期をしていて同じはずなんですが、生命の危機がせまっている場合には同期しているはずの脈に乱れが生じる――と言われています。


「言われている」と書くのは、三脈の法は科学というブランドの「製品」ではないからです。科学というブランドが大流行してから迷信とレッテルを貼られてガラクタ扱いされている「製品」のひとつ。

どこまで本当なのかはわかりませんが、ネットで調べると発祥は古代中国の『奇門遁甲』にあると出てきます。いかにも、な感じではあります。

でも、だからといってこの「製品」が役に立たないとは限らない。


ぼく自身は、三脈の法という「製品」は役に立つだろうと思っています。実際に役に立ったことはないのですけどね。この種の製品は、たとえば自動車のエアバッグと同じで、役に立たない方がよい類いの製品。役に立つような不運に恵まれ(?)なかったということです。

でも、危機の時にエアバッグが役に立つだろうと想像するように、三脈の法も役に立つだろうと想像しています。

理由は、ぼくが「野口晴哉」、あるいは「野口整体」という「ブランド」に信頼を寄せているからです。


野口晴哉は幼少の頃に関東大震災に遭っています。地震によっておきた大火をくぐって生き延びたという体験がある。伝説かもしれませんが、そのとき、晴哉が頼ったのは「勘」でも「偶然」でもなく、「観察」だとされている。自分の脈を診て、危険の度合いを察知したのだという伝説です。

ある地点で脈を診て、西へ行ってみる。そこでまた脈を診て、前より乱れていれば危ない方向へ来てしまったと判断する。逆に落ち着いていれば、安全な方向へ来たとする。

晴哉の伯父は腕の立つ鍼灸師で、晴哉は幼くしてそうした知識を体得していた可能性は高いと言えます。だとしても、危急の時に本当にそのような方法を実践して、それで本当に難を逃れることができたのかというと、100%は信じられないというのが正直なところではある。

加わるのは、震災後の発生した伝染病(主に腸チフスであったらしい)を、子どもの晴哉が「手当て(文字どおり)」をして治癒していったという伝説。口コミで評判になって、多くの人が集まり、多くの人が成果が上がったという奇跡の伝説。

晴哉の奇跡を聞きつけて、教えを乞う者たちが集まり始め、協会ができあがった――こちらは伝説ではなく事実です。現在も晴哉が創設した整体協会は存続しています。

そして、(傍流ながら)その流れを汲む者との出会いがあって、その者から間接的に伝えられた晴哉の知恵を、実際に自らの身体で確認している者がここにいる。その知恵は科学を基盤にする現代医療の常識とは合致しないところが多々あるけれども、現に役に立っているという実感があり、そのおかげで日々健やかに過ごすことができているという信憑がある。

自身による自身への「観察」の手法。

遡れば伝説というか神話の色合いは濃くなってしまうけれど、その流れの一端が自身に及んでいて、しかも役に立っているという実感がある

この構造は科学(という「ブランド」)の構造と何ら変わりはないと思うわけです。

これは「科学という課題」を自分と分離して相対化をしてみると、見えてくること。


三脈の法が危急の際に、本当に役に立つかどうかの保証はできません。ですので、その点において、三脈の法をオススメすることはありません。「知っていて損はないと思う」といった感じの、紹介の責任を放棄する形でしかオススメできない。それ以上は不誠実になってしまいます。

ですが、「科学という課題からの分離」という点においては、責任をもってオススメできます。「自身の身体で感じる」ことに始点を置くという点において。

(ちなみにぼくは、同様の方法論で「貨幣という課題」の分離も試みています)


ただし、この方法論はすこぶるアナーキーなものです。進めすぎると各々がアイデンティティとして確保したいと思っているもの(「見たいもの」)をも相対化してしまうことになる。そうなると「ふつうに」社会に適応した暮らしを営むことに苦痛を感じるようになってしまいます。

なので、自信を持ってオススメするけれども、これまた「どうなっても知らないよ」と(社会的な)責任は放棄した形にしかならざるをえません。

得られる果実の味わいは甘露なんですけれどね。社会的なところとは別のところにある身体的なもの。

社会的な【幸福】(「成功」)とは違った〈しあわせ〉。

でも、そうはいっても、伝説どころか妄想か幻想の類いくらいにしか受け止められないでしょうけれど...。

(最後は愚痴っぽくなってしまいました)

感じるままに。