マジレスします

申し訳ないのですが「耳を傾ける」というのとは違います。
「ご意見承りました」という感じです。そして、ご意見に対しての自分の意見を申し述べさせていただきます(笑)


「全人類が一つの目的にむかって団結する」などということは、夢としては楽しいですが、現実としてはないだろうと思っています。

そう考えるのは、人類が性悪だと思うからではありません。ただ単に、人間は「そのようにはできていない」と観察するからです。


未だかつて、ある程度以上の規模の人間の集団が一つの目的に向かって団結したといったような現象が出現したことはありません。

小さな集団なら多くの事例があるでしょう。“チーム”と言うことができる程度の規模でなら。スポーツのチーム。会社のなかのプロジェクトチーム。小さな企業なら企業全体。学校のクラス程度の人数規模なら「一致団結」はできる。でも、“組織”というべき規模になると、もう不可能です。

人間はそのようにできていないから。

そのようにできていないのは、「適者生存」のためです。人類が種として生き残るために、そのようにはならなかった。人類が種として生き残るために、人間は一人一人の多様性を活かしたままの集団を形成するようになった。それが〈社会〉というものです。大多数の者がある目的に向かって団結しようとしているときにでも、そう考えない者が必ず存在する。


こうした存在の異質さは、イデオロギー、観念、思考といったレベルよりももっと深いところに根差しています。もっと深い感じ方のレベルで異なる。感じ方が異なる人間には、イデオロギーや理念といったレベルでの「団結」といったものがそもそも理解できません。

この違いは現代の社会では「発達障害」といったモノサシで端的に取り扱われるけれども、人類という種のレベルから見れば、種が生存するために必要な多様性を担保するためにゲノムにプログラミングされたものだと考えるのが合理的でしょう。




人類が生存権を地球の外へ拡げる未来は実現するだろうと思いますし、期待もします。けれど、その実現の仕方は、『ガンダムUC』で謳われるような理念に沿ったものになるとは考えにくい。まあ、理念だけは建前として「謳われる」ことになるかもしれまんが。

このアニメに描かれているような形の方が、ずっとリアリティがあるように思います。


・・・われわれ一人ひとりの意識改革が不可欠だったのです。一国家一民族に属する「我」ではなく、人類という種に属する「我」。この観点に立たない限り・・・

マーセナスの演説にはこのような下りがあります。

この「観点」は、そうなんだけど、そうではない。それは「理念」にして言葉で把握してしまうと的外れになってしまう可能性が高いもの。なんとならば、観念的把握がなくても、人間は人類という種にすでに属しているから。そこを言葉で確認することは悪いことだとは言えないけれど、間違った確認の仕方をするととんでもないことになる。そして、歴史においては見てみれば、間違えた確認の仕方をしてしまった事例は山ほどある。

『ガンダムUC』は観ていないのでなんとも言えないのですが、おそらくは、理念の把握のさまざまな「誤り」——それは人類という種が生存していくために必要な多様性から生まれる必然の結果——から、争いが生じるというものでしょう。『ガンダム』ですから争いは鉄板でしょう。

争いは「誤り」を「正しい」と思い込むことから生まれる。争いを生むほどに「正しい」と思えてしまうのは、そう「感じられる」からでしょう。でも、「感じる」という深いレベルにおいて人間は多様です。その多様さが人類に必要なものですから、観念的な「正しい」によって矯正してしまうと、かえって自分自身の生存を脅かすことになってしまいますし、現にそのようになりつつあるように思えて仕方がありません。


人間は感じ方が違っても団結することができます。ある程度の規模の集団であるならば。

不揃いなのに心地よい音楽。
いえ、不揃いだからこそ心地よい

不揃いになるのは、揃えることができないからです。
揃える【能力】が備わっていない。
というより「感じ方」が違うので、揃えない。揃えようとすることは、その人の感じ方を歪めることになってしまう。

揃わなくても、音としては心地よいものになります。
心地よいものとして捉える〈能力〉が人間にはあるということだろうと思います。「感じ方」が違うので、揃えない。揃えようとすることは、その人の感じ方を歪めることになってしまう。

この〈能力〉は、必ずしも既存の【社会】に役立つものではないかもしれない。けれど『〈社会〉をつくる』ためには必要で、かつ、本能的に人間に備わっているものだろうと思います。


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