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井筒俊彦著『意識の形而上学』精読塾

前回は、私が開催している「空小屋」についての手前味噌な記事でした。

今回は、前回の記事で触れさせていただいたway_findingさんが開催されているnoteのサークル『井筒俊彦著『意識の形而上学』精読塾』のオススメ記事です。

参加者は今のところ、私ひとりだけ。本音を先に言わせていただくと、他の方には参加していただきたくない。笑。way_findingさんとの対話は濃厚すぎて、いつも2時間はあっという間に経過してしまいます。いつもいつも丁々発止のやりとりから脱線してしまって、本題の『意識の形而上学』読書がなかなか前へ進まないのですが、だからこそ面白い。

way_findingさんの読書量とその頭脳に内蔵されている知識量は本当に半端のない方で、私があちこちへと振り回す話題をキッチリとフォローアップしてくださるばかりではなく、その背景となっている書も紹介して下さいます。

知的対話を楽しみを知っているものには、この上なく贅沢な時間です。邪魔されたくないと思うの半分、とても面白いので、共有もしたいという思いが半分。ここで交わされている対話の濃度をテキストで伝えるなんて、とてもできません。

が、少しばかり試みてみます。どんなふうに面白いのか。


たとえば、こんな文章です(p.60~61)

その重要な一点とは、この意味での「意識」の超個的性格、つまり、それが我々個々人の個別的な心理機構ではなくて、超個人的 - 形而上学的意識一般、プロティノス的流出論体系の「ヌース」に比すべき純粋叡智的覚体(昔風の人なら宇宙的意識とでも言うだろう)であるということである。宇宙的意識とか宇宙的覚体などというと、やたらに大袈裟で古くさくて、そんな無限大の超個的意識の実在性など(アンリ - コルパンのいわゆる想像的想像力 imagination creatric の欠如のゆえに !?)現代人には信じられないかもしれないが、その場合は、現代のユング心理学の語る集合的無意識(Collective Unconsious)という意識(!)の「超個」生を考え合わせれば理解しやすいであろう。

全然、まったくもって理解しやすくありません。笑

集団的無意識とは、要するに、集団的アラヤ識の深層における無数の言語的文節単位の、無数の意味カルマの堆積の超個的聯合体系である。このユング的集合無意識に見られるように、超個人的共同意識、または共通意識を想定して、それの主体を汎時空的規模に拡大して、全人類(=「一切衆生」)にまで拡げて考えてみる。つまり、「一切衆生」包括的な意識フィールドの無限大の広がりを考えるのだ。

要するに、これです。

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いえ、「これ」というのは正確ではありません。「これ」的なもの。つまり"明白"なもの。"明白"なもののイメージを読者に伝えようとして、一見、"明確"に見える言葉を駆使しながら文章が組み立てられています。

どういうことかというと、井筒は明確に読もうとすると読めない、ということなんです。ここに並べられている言葉の意味を辞書でしらべて、逐語的に解釈していってもよくわからない。わからないように構築されている。

わからないからこそ、思惟をする。ここでいう思惟とは、創発を待つこと。ヒラメキを待つこと。言葉を自由な発想に委ねることです。

言葉を自由な発想に委ねる、とは? 少し考えると変ですよね。

たとえば、上の画像にあるのは太陽です。これを自由に(勝手に)"月"と言ってしまうと相手に伝わらなくなります。つまり不自由なんです。この不自由を「意味カルマ」といっているわけですが、「無数の意味カルマの堆積の超個的聯合体系」は不自由な縛りのことではない。逆なんですね。文字通りに読めば不自由でしかないものに、それでは読めないと気がついて、逆だというヒラメキを待つ。そうしないと読めないんです。

way_findingさんはすでにご自分のヒラメキを持っておられます。言い換えれば"自分の言葉"です。「無数の意味カルマの堆積の超個的聯合体系」という井筒俊彦の言葉を、ハンドルネームをway_findingと名乗っている一個の人間の"個的な言葉”とされている。"個的な言葉”だからこそ伝わります。

伝わるといっても、それはやはり、その言葉の受け手が理解するには創発・ヒラメキが必要です。"自分の言葉"だからこそ、創発・ヒラメキを生み出しやすい。ここにナラティブな言葉による対話の利点があります。

単に「テキストを読む」というだけではなく、"自分の言葉"に変換して伝える。この変換は高度な特殊技能です。ですが、"自分の言葉"が相手にも"自分の言葉"の創発・ヒラメキを促すという現象自体は、誰にでもできる人間に普遍的な技能。技能というより、単に現象と言ったほうがいいくらいのもの。

つまり、「井筒を読む」ということは、創発・ヒラメキの連続になるということ。これが丁々発止にならないわけがなく、面白くないわけがありません。もっともその人の言葉の自由度、「言葉にどれほど縛られていないか」が試されますが。

ということで、言葉の丁々発止をお望みの方にはオススメです。

なお、我が「愚慫の空小屋」の方は、丁々発止を目指す人・言葉の縛りから抜け出したい人を対象にしています。言葉の縛りから抜け出すことが、ひいては生きづらさから解放されること。

取りあえずは(←意味深w)お金をいただきませんので、ご希望の方はコメント欄でその旨、お伝えくださいませ。

感じるままに。