『ホモ・デウス』を読む(その2)

『その1』に引き続き。

「第一部 ホモ・サピエンスが世界を征服する」は、動物について語ることから開始されます。

理由は、人間もまた動物であるということ。さらには、現在の人間と動物の関係は、予測される超人と人間の関係を考える上での参考になること。


ホモ・サピエンスは生まれ故郷のアフリカ大陸からのエクソダス以来、地球上の生態系に変化をもたらしつつ、生存圏を地球上の陸地の隅々にまで拡大していきました。その際、大型の哺乳類や鳥類の多くを絶滅へと導いたということは、前著『サピエンス全史』でも語られていたこと。


生物はアルゴリズムだと著者は言います。

現代の人間がこれほどに甘いものを好むのも、イノシシの子孫である家畜の豚に知能と好奇心と群れを維持する社会的技能が備わっているのも、アルゴリズムの為せる技。

狩猟採集を生活手段とするホモ・サピエンスは、アルゴリズムに沿って生きていたし、現在でも生きている。アルゴリズムに生きるホモ・サピエンスは「動物の声」を聞くことができるし、死と隣り合わせではあるものの、思いのほか豊かで幸せな暮らしを営んでいる――これもまた『サピエンス全史』で語られていたことでした。


ホモ・サピエンスは農業革命を起こします。農耕を開始することでホモ・サピエンスは多くの人口を養うことができるようになる一方で、苦難の道を歩み始めることになった。旧約聖書で語られるところの「失楽園」です。

苦難の道の道連れにされたのが家畜化された動物でした。著者は、ホモ・サピエンスは動物を道連れにしたことを自覚していたのだと言います。けれど、それには目をつむることにした。自己暗示をかけたんですね。自己暗示のために発明したのが宗教だとは、皮肉な見方です。

動物たちの声を聞いていたホモ・サピエンスは、さまざまな神々の声も聞いていたことでしょう。そのなかで、ただ一人だけの声を聞くことにして、他の存在の声には耳を塞いだ。新しく始めた暮らしを続けていくために。


著者湯ヴァル・ノア・ハラリ氏のアルゴリズムという視点は科学的であることを通り越して、唯物的と言ってもいいのかもしれません。現代の最新の科学は必ずしも唯物的ではないからです。

唯物論というと想い起こすのはカール・マルクスですが、宗教への著者の皮肉な視線は、マルクスを連想させるものでもある。すなわち経済が下部構造であり、宗教を含む文化は上部構造で下部構造からの影響を受ける。宗教革命は農業革命によってひき起こされたのです。

もっとも、ハラリ氏によれば、マルクス主義も宗教のひとつ。資本主義ですら、宗教だと言う。


アルゴリズムという言葉から、連想する言葉をもうひとつ。それは”メカニズム”です。市場原理すなわち”マーケット・メカニズム”というときのメカニズム。

アルゴリズムもメカニズムも、似たような言葉です。著者の認識ではおそらくアルゴリズムはメカニズムを包含するのでしょうが、そうだとしてもアルゴリズムとメカニズムとではニュアンスが異なります。

著者のアルゴリズムは人間の意識や無意識をも含む。一方で、メカニズムには含まれるようには感じない。証券取引所が機能するのはアルゴリズムであると当時にメカニズムだともいえるが、人間の意識をメカニカルだというのは違います。


著者が描き出す宗教は、(著者自身はそのような言い方はしていませんが)メカニカルです。資本主義がマーケット・メカニズムによって駆動するように、宗教という統治システムもメカニズムに沿って駆動している。官僚制というメカニズム。

してみれば、宗教とはメカニズムのことなのかもしれません。ホモ・サピエンスに合理性を提供するものがメカニズムであり、宗教であり、ハラリ氏の言い方だと”意味のウェブ”。ホモ・サピエンスはメカニズムから合理性を提供される合理性に適応して「人間」になります。


ハラリ氏が指弾する(ように感じる)人間至上主義もまた、「宗教」なのでしょう。一般的な意味での宗教は、メカニズムの合理性の根拠を人間以外のところに求めますが、人間至上主義では、その根拠を人間自身に求めます。

人間自身が神、「ホモ・デウス」というわけです。

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