いろいろなカタシロを見て 空き缶さんへの返答
前回の日記で3D舞台「カタシロRefect」について感想を書いたところ、空き缶さんからコメントで関連動画を紹介していただいた。
ここでは、そこで紹介していただいた2本の動画について感想を述べたい。
精神科医が主演の舞台『カタシロRebuild』名越康文,ディズム,藍月なくる
【新クトゥルフ神話TRPG】カタシ?ロ CaseX:ディズム
以下はネタバレを含みます。未鑑賞の方はご注意ください。
精神科医が主演の舞台『カタシロRebuild』名越康文,ディズム,藍月なくる
ストーリーは前回の私のnoteで書いた健屋花那『カタシロRefect』と基本的に同じなので、そちらを参考にして欲しい。既にこれが6回目の舞台ということもあり、正直に申し上げると、この動画自体には、そこまで新しい発見はなかった。
一つあった発見は、私は健屋花那によるVtuberの『カタシロReflect』を最初に見たのだが、それがとても良い体験だったということだ。ラストの扉を開けるとプレイヤーの体が横たわっているという描写は、Vtuberだからこそ、脚本をそのまま再現できている。そこで受ける観客の衝撃は勿論、自らの身体を前にすることで、プレイヤーはよりリアルに状況を受け取り、演技ができていたのではないかと思う。
さて、動画そのものの話に戻そう。名越先生のテセウスの船の回答は、基本的に自分の文化的遺伝子(名越先生は「経験」と呼んでいる)についての考えを述べているだけで、回答になっていない。テセウスの船でいう「経験」は船ではなく所有者に宿るのだとしたら、部品が変わっても同一性は受け継がれるのか、というような掘り下げがあれば、もう少し議論が深まったかもしれない。
トロッコ問題について、名越先生は、自分が線路のギアを切る立場に立たないようにする、と答えた。私はこれは非常に健全な考え方だと思うし、基本的に私はこの考え方に賛同する。ただ、名越先生の臓器くじに対しての答えは漠然としている。
名越先生の答えは、自分が納得できるような物語の中であれば、臓器くじを受け入れるという答えだ。これは前段のトロッコ問題についての態度からは矛盾するように見えた。トロッコ問題の線路のギアを切りたくない、というのはどういうことか。それは人間に価値をつけて比較したくない、ということである。臓器くじを行えば、必然的に1人よりも数人の人間を救うほうが良いという価値判断を受け入れることになる。人間に価値をつけて比較したくない、ということは、裏返せばあらゆる人間は平等で等価値であるということだ。それであれば、健常者と障害者を別の価値の存在として扱っている時点で、臓器くじは人間平等の原則に反していて、成り立たないというのが答えになるはずである。
平等と似た概念として、公正がある。公正は、個々の違いを認め、ハンディキャップを埋めることによって、全ての人が同じ満足を得られるようにすることである。例えば、人間の体の大きさや年齢によって、配給する水の量を調節するのは公正である。これに対して、あらゆる人に同量の水を配給するのが平等に基づく行動である。臓器くじは公正という観点からも問題がある。結果として一人の健常者は命を落とし、数人の障がい者は生き残る。全員が同じ満足は享受できていない。
最後に、名越先生はすんなりと自分の身体を譲った。名越先生は10年間音楽を楽しむことを自身の生きがいと感じており、それさえ叶えられれば良いという。そのため、10年間はロボットの体を維持するよう努力してほしいと医師に伝えた。歌えていれば、身体にそこまで執着はないのだという。潔い決断だとは思う。ただ、この決断は体を与えることがアユムにとっての幸せだという思考停止や、自身の幸せは自身の中で完結しているという、非常に自分本位な考えで構築されている。
そして、名越先生は医師とアユムの治療をしたいと言った。これは名越先生なりの責任の取り方なのかもしれない。しかし、自身に身体を提供してくれた医師からの精神的治療というのは成立するのだろうか?医師と患者が他者であり、あくまで治療費と治療行為を等価交換するからこそ、多くの治療は成り立っている。医師は治療行為のミスを犯さない限り、特に咎められることはない。医師は治療行為がきちんと遂行されることは保証するものの、治療の結果は患者に保証しない。患者は治療費以上の対価を支払う義務はない。それゆえ、医師が能力不足だと思えば、他の医師を選択することもできる。患者が大きな恩義を医師に負ってしまっている場合、それは医師にとっても、患者にとっても大きなバイアスになる。むしろアユムに不自由を強いてしまっていないかが、私の疑問である。
続いて、「【新クトゥルフ神話TRPG】カタシ?ロ CaseX:ディズム」について。
カタシ?ロでは、カタシロの作者であるディズム氏がプレイヤーを演じている。カタシ?ロはカタシロのストーリーをベースにしながらも、作者へのアンサーにふさわしいかたちで、オチが変更されている。カタシロでは自身の体はロボットにされており、アユムが脳の姿で登場する。これに対して、カタシ?ロでは、自身がアユムであり、既に別人の身体を与えられていることが明かされる。
カタシ?ロでは、プレイヤーに投げかけられる3つの質問も変更が加えられている。
・カルネアデスの板
・水槽の脳
・ミニョネット号事件
ミニョネット号事件についてのディズム氏の回答は、瀕死の仲間を自ら食べることはしないが、もし瀕死の仲間が同意をして自ら身体を差し出すのなら、その人を殺して食べるという答えだった。これは、前回のノートで私が書いた、事前同意の重要性に繋がっていて、興味深かった。
しかし、質問の中で最も興味深かったのは、水槽の脳に対するディズム氏の答えだ。自分とは他者です、本当の自分なんてありません、とディズム氏は言う。自分を定義づけているのは他者だという。周りが自分を浮き彫りにするということだ。記憶を失っている自分も、医師が自分として話してくれる限りは自分だという。
ここで、A氏の脳とB氏の身体を組み合わせた人はA氏か、B氏かという問いをゲームマスターが出すが、これによってディズム氏は明らかに動揺する。回答は玉虫色で、正直ディズム氏の結論はよくわからない。本人がBだと言っていても、Aのようにその人が振る舞い、周りがAだと言ってれば、Aなのではないか。しかし、自己認識はBなんだから、Bでもあるんじゃないか。見方によるんじゃないか、という感じの答えだ。
そのゆらぎのまま、ディズム氏はエンディングを迎える。自身の身体を失う前の記憶を自らの意志で取り戻す。新たな体になってしまった自分を仕方なく受け入れる。変温動物のように周りの環境で自分の温度が変わっていくのを感じながら、しばらく生きておこうと述べる。思考のブレが見えるなかなか興味深い展開だったが、勝手に私の場合の答えを述べたいと思う。
水槽の脳、胡蝶の夢、「我思う故に我あり」
今のところ人間の意識や無意識を生んでいるのは、医学的には脳だということになっている。それゆえ、今、自分が見ている世界は全て水槽の脳の中の出来事なのだということはありうる。しかし、今自分が見ている世界が現実なのか、それとも水槽の脳が見ている夢なのかを疑うことには、ほとんど意味がないというのが私の考えだ。
水槽の脳に似た問いとして、莊子が提唱した「胡蝶の夢」がある。夢の中で蝶となった自分が飛んでいた所で目が覚めたが、はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも実は夢で見た蝶が本来の自分で、今の自分は蝶が見ている夢なのか、という問いだ。莊子のこの問いは、小知(未熟な知)はかえって混乱を生んでしまうことを象徴している。つまり、莊子にとっては現実と夢の対立は小知であり、その対立に基づく問いには意味がない(ゴールがない)。なので、蝶になっているときは蝶としての自分を、人間になっているときは人間としての自分を肯定して生きていけば良いというのが莊子の考えだ。私はこの考え方に賛同している。
またディズム氏が提唱した、自分を規定するのは他者であるという考えについて、もっと私は具体化して答えたい。まず、大前提としては自分は自分で規定するものだというのが私の考えだ。他者が自分を規定するというが、その他者を認識しているのも、結局のところ自分である。デカルトが「我思う故に我在り」と唱えたように、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、そのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している自分(我)だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身は存在している。
なので、A氏の脳とB氏の身体を組み合わせた人はA氏か、B氏かという問いの私の答えは、その人が「私はAだ」と言えばA氏だし、「私はBだ」と言えばB氏だという答えになる。ただし、ここから少し話がややこしくなる。その人(仮にハイブリッド氏としよう)が自分が誰々であると主張することは自由だが、社会がそれを受け入れるかどうかは別の問題である。
ハイブリッド氏について、自分が誰なのかという答えは、ハイブリッド氏自身にしか答えは出せない。あなたが誰なのかはあなた自身にしか答えが出せないのと同じである。自然状態であれば、他者も単にそれを信じれば良いだけである。しかし、前回の記事で書いたように、人間は社会生活を営む必要があり、社会と断絶をすることはできない。そして、社会は、それぞれの人がどのように自分を規定しているのかと関係なく、個人を規定する必要がある。ディズム氏が提唱したのはこの部分であるのだが、ディズム氏は直接的に自身の規定と結びつけて論じてしまったために、最後まで意見が揺らいでしまったというのが私の考えだ。
ここで言う社会は基本的に国家のことだと想定してよい。国家は個人が国民なのか国民でないのか、いつどこで生まれたのか、性別は何なのかなどということを規定する必要がある。もし私がすっかり心を入れ替えて、新しい年齢の人間として意識が本当に変わったとしても、国家はそれを受け入れてはくれない。あるいは、私が認知症になって家族のことを忘れてしまったとしても、私だけが家族の戸籍から抜けることはないだろう。
繰り返すが、本来の意味で自分を規定できるのは自分だけであり、それを周りに主張することは自由である。しかし、それと無関係に社会(国家)は別の規定を個人に与えるのである。基本的に現代社会では自分の規定と社会の規定は一致しているので、問題になることは少ない。しかし、例えば、昨今話題になっているLGBTQの人権問題はこの問題に通じている。MtFのトランスジェンダーの人が「私は身体は男性だが自意識は女性です」ということは自由だし、往々にしてそれは本当だろう。しかし、社会はその主張とは無関係に反応する。女子トイレに入れば警察に通報されるかもしれない。医学的には男性だと認定され、戸籍の性別は変えられないかもしれない。
LGBTQの人たちは自分の規定と社会の規定に齟齬があるため、生活に苦しんでいるのだ。だからLGBTQの人たちに「別にLGBTQであることは自由だし問題はないじゃないか」というのは本質を捉えていない。社会が彼らの規定を認め、LGBTQの人々の自身の規定と社会の規定のずれをなくさない限り、問題は解決しない。例えば公衆トイレについて、女子トイレ・男子トイレ・多目的トイレだけでは足りなくて、今より種類を充実させてもっと面積を確保するものだという考えが世間に浸透して、初めて社会の規定が整ったと言えるだろう。
さて、カタシ?ロのラストに話を戻したい。記憶を取り戻すかどうかという問いについては、私は記憶を取り戻したいと願うだろう。記憶を無くして生きるということは、自分が行ってきた功罪も捨てることになる。それは自分を規定するにあたって非常に辛い状況だ。
そして、記憶を取り戻した私は、その理不尽な経緯に怒り狂うだろう。父が私に勝手に別の身体を与えたのは理不尽だ。しかし、父の気持ちは理解できるし、身体のない人生の辛さも想像に難くない。答えを出すことのないジレンマに悶絶することだろう。
だが、最後にはそれを受け入れて生きていくしかない。私は私であると思いながら、勝手で冷たい社会からの規定(「あなたはあなたが思っている人物とは別の人物である」というまなざし)に曝されながら生きていくことになるだろう。そもそも、私とは誰なのか、自分でも答えがなかなか出せないだろう。これは非常に辛い。
しかし、忘れてはいけないことは、自分の規定と社会の規定は無関係だということを自覚することである。私は誰がなんといおうと自分の好きなように自分を規定するし、自分の幸福を追求していく。もちろん社会とは折り合いをつけなければならないが、それによって自暴自棄になることは馬鹿らしい。
そして、これまでの人生を歩んできた自分も、新しい身体をもらった自分も、それぞれを肯定していく。簡単なことではない。しかし、夢と現実を対立させても、結局今目の前にある世界を変えることはできないのだ。
社会は冷たいかもしれないが、私を受け入れてくれる個人はどこかにいるかもしれない。私自身の規定をそのまま受け入れてくれる人と繋がること、それこそが友情であり、愛である。私自身の規定をそのまま受け入れてくれる人に出会うこと、それこそが希望である。
「どのような状況になっても愛や希望はある」
私はそのように告げて、ゲームを締めくくりたいと思う。