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命が奪われている現実とそこから離れた場所にある現実

命について考えている。

朝起きる。寝ぼけ眼のまま携帯のアラームを止め、布団から体を起こすことを渋りながらSNSをチェックする。
誰からも連絡が来ていないLINEを開く。これはルーティーンをこなすようなもので、ほぼ無意識にニュースのタブをタップする。そこには昨晩から今朝にかけて起こったことが見出しとなって並んでいる。

ああ、今度は学校が襲撃されている。

見出しだけを確認した私は、LINEを閉じ、Twitterに移動する。(Xとは呼び慣れないし、多分呼ばない。)
知り合いや知り合いじゃない人のとりとめのないつぶやきや、好きな芸人の情報をチェックして、やっと布団から体を起こす。
私の一日が始まる。

始まってしまえば、時の流れには抗えない。
私は仕事に行く準備をして、電車に間に合うギリギリの時間に、バタバタと家を飛び出す。

通勤ラッシュ時間の狭い車内で自分の身を落ち着かせる場所を見つけ、携帯を開く。
起きた時と同じルーティーンでまたSNSをチェックする。
LINEのニュース欄に出てくる見出しは変わっておらず、私は見出しを見たまましばらく動けなくなる。

日本から遠く離れたガザ地区では、私には想像もできないような状況が広がっている。
想像できようができなかろうが、SNSが発達した昨今では、指先一つでその地獄絵図を見ることができるのだが、私は未だそれを直視することができずにいた。
それは目に飛び込んでくる情報への恐怖や拒否感ではなく、世界のどこかでそんなことが起こっているのに、自分は日常を消化しているというあまりに乖離した現実へのどうしようも無さである。

ガザ地区だけではない、ウクライナや世界のたくさんの場所で、今この瞬間にも命が失われている。
私はそれらの場所で起こっていることを断片的にしか知らない。
社会科の教師をやっていたくせに、そこはどのような場所でなぜそうなったかについても語ることができない。
ハマスとイスラエルの衝突があってすぐ、私はイスラエル・パレスチナ問題を詳しく知るために本を買った。宗教的にも民族的にも歴史的にも複雑なこの場所についてきちんと知っておかなくてはならないと思ったからだ。
開いた本は思いの外難解で、頭がクリアな時にしか読み進めることができず、ここ1週間ほどは、鞄の底に重りとなって眠っているだけである。
そうすることができる自分の状況に、どうしようもない気持ちになる。

今起こっていることはどうしようもない現実で、恐るべき、そして一刻も早く終わらせるべき現実である。
でもそれは、私個人の目の前の現実に向き合うと、その緊迫性が薄れてしまう。
私個人の喫緊の課題は、10月より再就職した職場に馴染み、仕事に慣れることである。
新しい環境では当たり前だが疲労は溜まりやすく、思考はそれで埋め尽くされる。
週2日ある休日を求めて、5日間仕事をこなし、日々を消化する。
そこに、遠い地で失われる命が入り込む余地はない。
しかし、数としてカウントされるそれら一つひとつの命には、それぞれの人生がある。
当たり前だ、そんなこと。わざわざ書く必要もない。

でも、じゃあ、何が違うんだろう。

生まれた国、生まれた場所、生まれた家、全部違う。
でも同じ命だ。
遠い地で理不尽に奪われた命も、毎日人が押し合う電車で仕事へ向かう命も、同じ命のはずで、理不尽に奪われていいはずなんかなくて、それは絶対に止められなくてはいけないことで、でも止まらなくて、私はそれを忘れて日常を生きることができていて、指先一つでそれを覗くことも、覗かないことも選ぶことができて、
薄情だとも思うし、どうすればいいんだとも思う。

私は自分の人生は、もうええわと思っている。
それと同時に誰かの命が理不尽に軽く扱われることはあってはならないことだとも思う。
これは傲慢な考えなのだろうか。
それに、自分とは遠く離れた場所で起こる現実を忘れて生きることは、誰かの命を軽く扱っているということなのではないのか。
わからない。わからないけど、それは何かとてもおぞましいことのように感じる。だからといってどうすればいいのかもわからない。

部屋で本を読んでいると、祖母が入院することになったと母から連絡が入った。1週間程度の入院で、これを書いている時にはもう退院している。
でも私は、祖母の体調が悪く、週明けに大きな病院で検査があると言われていたことをすっかり忘れていた。

なんて薄情なんだ。吐き気がする。こんな奴が何をもって命を語ろうというのか。
でも生きていてほしい。どうか、できるだけ長く。
傲慢で、薄情で、とんでもなく無責任だ。
でもこの感情は忘れたくはないし、考え続けなくてはならないと思う。
そのためにまとまらないこの文章をここに残しておく。


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