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決して短くはない10年

noteのお題を見ていて、#それぞれの10年というのを見つけました。なんのことかと思ったら、3.11から10年経ってということでした。あれから10年経つのかと思い、当時を思い出すと、ずいぶん昔のことのように感じられました。せっかくの機会なので記録として残しておくことにしました。

1.あの時、何をしていたか

2011年3月は大学院1年目の終わりでした。当時の医局のルールで大学院1年目は診療しながら研究を少しずつ始め、2年目から研究だけにシフトすることになっていました。
そのため地震の時は病棟にいました。グループで午後の回診をしていた記憶があります。東京でしたが、かなり大きく揺れたのを覚えています。また偶然、古くからある病棟の方にいたので揺れは激しく感じました。さらに建物の壁のタイルが揺れで剥がれ、外をバラバラ落ちていくのが窓からみえて、さらに不安になったのを覚えています。揺れがおさまった時に、自分の専門病棟に戻りましたが、当然、エレベーターは止まっています。階段で病棟まで上がり、患者さんの様子を確認しました。その後も何回か揺れが来ましたが、看護師さんたちがあわてずに点滴をロック(短くする作業)をしていたのが印象に残っています。

2.その日の出来事

その日の夕方は帰宅できない患者さんで病院内はごった返していました。そういえば、たまたま私が初診でみた患者さんをその中に発見し、帰れなくなったというので近くのコンビニまで連れて行ったり、食べ物と休む場所を確保するため病棟に連れて行ったのを思い出しました。
その後、病棟の仕事を終えると実験室に向かいました。本棚の本や実験台の上に積んであった荷物が落下していましたが、培養している細胞がこぼれず無事だったことに驚いたのを覚えています。実験室があるビルもいつ崩れてもおかしくない古い建物だったのですが、意外と大丈夫でした。
医局に戻ると遠方から来ている秘書さんや実験助手さんが帰れなくなっており、仕方なく一晩、泊まるということでした。上の先生はすでに帰られていましたが、中には遠方まで数時間かけて歩いて帰られた先生もいたようでした。一番、最悪だったのは車で帰った先生で、自宅に着いたのが翌朝近くだったとおっしゃっていました。
私自身は病院から5分のところに住んでいたのであまり影響もなく、ことの重大さにまだ気づいていませんでした。影響といえば自宅の安全装置が作動してガスが止まっていましたが、自分で復旧させるというのを知らず、その後、3日間ぐらいは水シャワーになったくらいでした。

3.その後のこと

福島の原発問題や津波のことが話題になったことは皆さんも記憶に残っていると思います。私自身は4月から研究生活になったため、その生活に慣れるのに必死で、震災とはあまり関わっていませんでした。しかし大学院のカリキュラムの一環で大学主催の講習会に色々と参加すると、なにかと震災に関連付けた内容が多くなっていることに気付きました。例えばがん関連の講習会では「もともと自宅で緩和治療を受けているがん患者さんが震災に合われた時にどうやってアプローチするか」をお題に皆で話し合うというセクションが、例年のプログラムに加えられていたのです。またそのような講習会で看護師さん、薬剤師さん、看護学生、他大から来ている学生など、さまざまな職種の方と出会う機会があり、また彼らの多くがボランティアで被災地に行っていることに驚きました。自分も何かやらなければと思っている矢先、母と祖父が続けて病気で亡くなり、それどころではなくなってしまいました。

4.10年間はあっという間に

大学院に入った時、教授から「私の定年は10年後だからそれまでには一人前になってもらいたい」と言われました。加えて、「10年なんてあっという間だけどな」とも言われました。
私の友人や知り合いの中には震災をみて、東北の病院や大学、あるいは研究施設へ就職した人が何人かいます。彼らは東北を救いたいという熱い思いを持って、そちらへ行ったようでした。
私はといえば大学院に始まり、敷かれたレールを走っていました。大学院卒業から短期の海外留学を経て大学を離れ、いまは基礎研究をしています。最後は、敷かれたレールから少しはずれてしまいましたが、彼らのような熱い思いを持って、どこかへ飛び出すことはできませんでした。
とはいえ私も10年間の間には色々なことがありました。10年前は専門バカにだけはなるまいと思っていましたが、いまは専門領域の基礎研究をする超専門バカになっています。
プライベートでは結婚し、子供も産まれました。特に子供が産まれてからは、人生観が180°変わりました。10年前は、「死ぬほど働くことこそが正しい。すぐに帰るやつはクズだ」と思っており、実験室に住み着いているような生活をしていました。しかし、いま週半分は子供の迎えのため5時前に職場を去り、毎週日曜は休んで家族との時間にあてています。また高校のOB会に顔を出すようになったり、草野球を始めたりした関係で新たな知り合いも増えました。
人間10年もあれば、色々と変わります。まったくあっという間ではない10年間でした。
この10年の間、先に書いた、震災の後にボランティアに向かった人たちや東北の施設にうつって行った人たちをみて、彼らをうらやましいと思う反面、自分が何もしていないことに苛立ちを覚えた時期もありました。しかし振り返ると自分は自分なりに考えを持って進んできたのだと思います。そこは評価しても良いのではないでしょうか。

5.これからの10年

まずは家族を大事にしていきたいというのが大原則です。その上で何をしていくか。
実は何も決まっていません。来年でいまの職場との契約が切れるので、そこが一つの転機にはなると思います。ただどの方向にいくのでしょうか?
研究職もこの年になると限界がみえてきました。臨床に戻るにしても共働きで子育てをしながらだとバリバリにすべての時間を割くのは無理な気がしています。
では何をするのか?
月並みですが、自分が熱中できることをできればいいと思っています。とりあえずの進路を決めるまではもう少し時間があるので、じっくりどうするか考えていきたいと思います。

6.最後に

3.11の日とその後の10年間を簡単に振り返ってみました。思い返すと、本当に色々なことがあったし、色々な方たちと出会い、別れを繰り返した10年でした。周りの環境も大きく変化しましたが、10年間で唯一、変わらないものがあります。
体重です。
もともと少し多めなのですが、ほぼ変わりません。これは自慢できると信じています。ただ、もちろん筋肉量は減り、脂肪は増えています。なんとかしないと。
今回も長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。写真は10年くらい前の学会で撮った風景です(四国だったかな?)

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