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精神科医だった父の話

私の父は精神科医でした。15年前に亡くなってしまったため、でしたと過去形にしています。そんな父との思い出を書いてみました。この話も現代の医療とは少し違う部分も多いと思いますので、読み物として読んでいただければありがたいです。

1: 父の経歴

父は関西の医大を卒業して、そのまま母校の精神科に入局したそうです。入局した当時の教授を心から尊敬していたそうで、幼かった私もその教授の名前を父からよく聞かされていました。その尊敬する教授が定年を迎え、後任の教授と合わず、母校を飛び出して東京へやってきました。なので、私は関西生まれの東京育ちです。

新任の教授と合わなかったと書きましたが、これは父の性格が大いに影響していたようです。なので教授の嫌がらせに耐えきれずとか、パワハラがキツくてというのとは少し違うようです。

父は一言でいえば変わり者。こちらの話を聞いていなかったり、妙なこだわりがあって怒り出すということが多々ありました。ただ怒っても怒鳴ったり、手を出したりはしないので怖かった印象はありませんでした。なので新任教授から関連病院に行かされかけたとか、そういう問題はもちろんあったそうなのですが、父の方も医局員ルーチンの雑用を拒否したりとかしていたそうなので、父が母校の医局を辞めたのも一概に新任教授が全て悪かったわけではなかったようです。

そして東京に出てきてからは神経系の研究所に勤めていました。なので私が幼稚園の頃は父が医者なのを知らず、「お父さんは何をやっているの?」とまわりに聞かれても「研究してる」と答えていました。

ちなみに私が中学生の時に、学校で職場見学のような企画がありました。数人のグループでどこかの職場に交渉し、その様子をまとめるというものです。父から自分の職場(この時は精神病院のバイトと自分のクリニックを掛け持ちしていた)はどうだと提案されたので、同じグループの友人に話したところ、「精神科医って1日、ぼーっとしてるんだろ」とか「変なやつを相手にしてるんだろ」などと子供ならではの傷つくことを言われ、このことは親にも言えず、以後、父親が精神科医だと公言するのは控えるようになったのでした。この友人たちもいま思えば、少しやんちゃな人たちだったのでそこまで気にする必要もなかったかなとも思うのですが。

話を戻します。その後、私が小学校4年の時に父は自分のクリニックを開業しました。父が所属していた研究所では、そこを経て色々な大学の教授になる人が多かったそうで、開業すると聞いた時、母はどうやらがっかりしたみたいです。ちなみに私の祖父も医者で、若い頃、地方医大の教授になれるチャンスがあったらしいのですが、戦後の混乱期で食べていく方が大事だと考えて、開業したという経緯があるそうです。血筋なのでしょう。そして父は、そのまま亡くなるまで、クリニックの院長として働いていました。他にも地域の病院の当直をしたら、刑務所の精神鑑定をしたり、色々なことはやっていたのですが。

2: 父の診療スタイル

私の父は今生きていれば70歳くらいで、いわゆる少し前の精神科医でした。私が学生だった2000年代の精神科はアメリカ医学の影響を受けた疾患の分類が中心になってきていた時代で、私たちも大学でICD-10とかDSM-Ⅳといった分類を学んでいました(いまはICD-11とDSM-Ⅴになったようです)。父はその前のドイツ精神医学を基礎にしていました。このアメリカ精神医学とドイツの精神医学の違いは私も十分には理解していないのですが、精神疾患の診断方法がドイツの方は職人的、アメリカの方はガイドラインに沿うという違いがあるようでした。つまりドイツの方は、患者さんの診察をして、これまでの経験や知識をもとに診断をつけるというもの。一方でアメリカはガイドラインと患者さんの症状を対比し、いくつかの項目を満たせば診断をがつくというもの。ドイツの方は職人的な力が必要な反面、診断が医師によってぶれる可能性があります。アメリカの方はガイドラインに従えば統一した診断が誰でもできるメリットはあるものの、精神科医の専門性が薄れるというデメリットがあります。最近はアメリカの方が主流のようなのですが、父は精神疾患を項目で分類するという考えが好きではないようでした。

父はよく「いまうつ病と診断されている中で、本当のうつ病というのは一部しかいないのではないか」と話していました。例えば、うつ病の診断基準の一つに、「一日中、気分が落ち込んでいる」というのがあります。これが病気で落ち込んでいるのか、それともたまたま何かきっかけがあってただ落ち込んでいるだけなのか、その判断が診断基準だけでは見えてこないという考えのようでした。この裏には一時的に心が乱れただけの病気でない人に対して、無下に治療(投薬)をするなというメッセージが隠れていますし、そこの正常と病気の判断をすることこそ精神科医の仕事だというプライドが表れています。

3: 父の考え

この考えは小児に対してはもっと強いようでした。私が大学生になった頃から注意欠陥多動性障害やアスペルガーという疾患概念が有名になりましたが、父はあまり好きではないようでした。「自分の子供時代を振り返ると、勉強ができない子、落ち着きがない子、空気が読めない子というのは必ずいただろう。彼らを病気だと言って普通学級に入れないのは正しいことなのか?ましてや薬を与えるなんて。大きな個性と捉えるべきではないのか」これが父の主張でした。これは半分正解で半分不正解だと思います。たしかに個性的すぎる子供に病名をつけるのは間違っているかもしれませんが、本当に発達障害で苦しんでいる子供や親もいるのです。そういう子に正しい診断をつけ、正しい対処をしてあげる。これによって救われるケースも多々あるからです。

私の弟は生まれつきの知的障害があるのですが、父も母もいま書いたような考えでしたので、中学まで普通学級で通し、高校も定時制を卒業しました。小中では、いい経験もできましたが、いじめや先生からの差別の対象になることもあり、嫌な思いもしたようです。この辺りはまた機会があれば書きたいと思います。

4: 生前に父が私に伝えたこと

さて父は私が医学部六年の時に亡くなったので、私が医師になってから医療について話し合うことはありませんでした。しかし私が医学部に入学してから一貫して言われたことがあります。それは「何科に行ってもいいが、患者さんが精神科に通っているからという理由だけで診療拒否をするような医者にはなってくれるな」ということでした。精神科医として働く中で、患者さんの内科疾患などを見つけることもあったそうなのですが、肝心の内科医が精神疾患を理由に診てくれないということが多々あったそうなのです。決して精神疾患の方を差別してはならないとよく言っていました。私が内科の臨床をしていた頃、たしかにそういう場面に直面することはよくありましたが、父の言葉があったので極力、踏みとどまっていたと自負しています。ちなみに私は救急外来で精神疾患の方に当たることが結構、多く、一度などは体が悪いか調べたくてきたという方が、実はある精神疾患の発症直後だったということがあり、紹介した精神科の先生からえらく感謝された記憶があります。草葉の陰から父が見守ってくれているのかもしれません。

5: 最後に

本当はもう少し色々なエピソードを入れて行きたかったのですが、長くなってしまったので一旦、ここらで終わらせていただきます。次はもう少し軽いエピソードを交えて書いていきたいと思っています。本日はここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

写真は父が留学したドイツにちなんで、以前に撮影したドイツの空港です。

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