毒親のような何かから逃げた話(記憶整理)

色々な皆様、初めまして。きゅーりと申します。

自分語りにこのような場所をお借りできて、大変光栄に思います。

この先、非常にネガティブな内容となっております。
家族のことを悪く言う表現や、死生観について語っているものを読むのが苦手な方はご遠慮ください。


私は32歳の女です。
思い切って地元から他県へ引っ越し、経済的に少々苦しいですが一人暮らしを初めて約半年が経ちました。
今日、この記事を書いているのは、今日は朝から精神的不調がマックスで、もし遺書を書くなら、誰でも見れるチラ裏的なところにでも書いたろ!という衝動からでした。
Twitterの壁打ちアカウントを作って、文字数足らんな…となってここに辿り着いたわけです。

そんなわけで、タイトルのことを書いていこうと思うのですが、「毒親のような何か」というのは、現時点で私自身がそのように捉えているだけで、もしかしたら違うかもしれません。
これを読んでくださっている皆様や、今後半年くらい経った頃の私が見たら「これは違うだろ」と思うかもしれません。
でも、今の私はそう思っている。ということを頭に入れておいていただきたいのです。(自分に言い聞かせている)

それでは本題に入ります。




私はある県の都市部で、3人兄弟の真ん中に生まれた長女でした。
家には父方の祖父母がいて、3世代の家族に育った、生活水準は割と高めなお家に住んでいたんだと思います。

両親は共働きで、母は特に高収入な職場で働いていると聞かされていました。
祖父母は年金生活、父親の当時の職業は覚えていませんが、不況の煽りでリストラをされてからは、とにかく母親一馬力で私たちの生活を支えていたのだと思います。
私の小学生の時に父は一時期無職になっていて、家に帰るとテレビの前に名転がっていたのをよく覚えています。しばらくしてフリーターから契約社員になったと聞かされましたが、母の給料の方が圧倒的に多かったらしいです。

そして、私は物心の着いた時には、祖母以外の家族が嫌いになっていました。

家長なのに私たちに背中を向けて寝転がっている父親の後ろ姿。
まだサンタを信じていた3歳の私に「きゅーりちゃんの保育園でサンタやることになったんだよ」と嬉しそうに報告してきて、子供の夢をぶち壊してくれた祖父の笑顔。
私が怪我をしたり発熱で泣いていた時に「そんなことでいちいち泣かないでよ」と鬱陶しそうに言っていた母親の顔。
私を挟んだおかげで、歳の差兄弟で無駄に仲が良く、私のことを異物のように扱ってくれた兄と弟。
唯一、祖母を嫌いになれなかったのは、私と過ごす時間が長かったからだと思います。

保育園、3歳の頃、兄の真似をしたいと公文式の塾と水泳と空手を始めましたが空手がどうしても好きになれず、けれど始めたならやめることは許さないと母に言われ中三まで通いました。
(この文章が書けるのも公文式のおかげかと思うと、それだけは感謝しています。)
週の4日は、お昼寝の時間に祖父が迎えにきて早退きからの習い事、それ以外の日は、保育園が終わった後に祖父に連れられて公園へ。親が帰ってくるまでは祖父母の部屋で、祖母と再放送のドラマや時代劇、相撲を見るのが日課でした。
土日は両親に連れられて、いろんな所へ旅行に行っていましたが、良い思い出が未だに見つかりません。

保育園では、みんなが寝ている時に帰るからか、心のどこかで疎外感を感じていました。
そのため、保育園に行きたがらない日が増えました。
両親、特に母親からは特に叱られましたが、ここが私を母親の溝を深める長いバトルの開始時点だったのだと思います。
無理やりに送り出され、特に仲の良い友人を作ることのないまま幼稚園時代を終えました。一人、不可思議な子に粘着されていましたが、あれを友人だと思われているのは未だに気分が悪いです。

小学校に上がってからも、行きたくない、という思いは変わりませんでした。
むしろ家庭環境の悪化で一人の時間が大幅に減り、登校拒否は悪化していきました。
公文式のおかげか基礎の勉強だけはできたので、学力的に落ちぶれることはありませんでしたが、毎日がしんどかったのを今でも鮮明に覚えています。

時には学校へ行ったふりをして家の裏に隠れ、母が出勤した後に家に帰るという荒技も繰り出しましたが、その時も家にいた祖母は私を叱りませんでした。おそらく祖母は私の言動に無関心だったのでしょう。その距離感が心地良かったというのも、祖母だけが嫌いじゃなかった原因にあるのだと思います。

小学校低学年の時期に、私には大きな変化がありました。
家の建て替え、建て替え期間の住居への引っ越し、友人の変化、などなど、忘れているものもあるとは思いますが、今思い返すとかなりの変化に、精神的に参っていました。
それは母も同じだったようで、愚痴を言う機会が増えました。
その頃から、母は私に家族や職場、ご近所さんの愚痴を言うようになりました。
学校と習い事と母の愚痴聞きで、私は気持ちが休まる暇がなく、いつもどこかで一人になりたいと思っていました。
母の愚痴に比例して、学校を休む日が増えていきました。この頃には3日に1回は休んでいたのを記憶しています。

そのころ、道徳の授業で「自分の名前の由来を調べよう」というものがあったのですが、それを家族に聞くとみんな揃って「姓名判断師に頼んだ」というのです。
その理由が、なぜか私にはすごくショックで、親からつけてもらった名前じゃないことに落ち込みました。(その後の思春期でもっとショックを受けるとは思いませんでしたが)

その後、新しい家が建ちました。
両親は一番広い部屋にきゅーりを、と私をベランダのある部屋に割り振ったのですが、これが最悪でした。
唯一のベランダのある部屋に私を置いたことで洗濯物を干す母や祖母が入ってくることがかなり多くなり、私は毎日ドアをノックもせずに入ってくる家族に悩まされることになりました。
(後に友人は「お前の部屋、廊下じゃん」とツッコミをくれました)
当時の私には全く原因がわからないまま、気持ちだけが落ち込む日がどんどん増えていきました。

この頃、ついに限界を迎えました。
習い事に自転車で向かう道中、交差点で信号待ちをしていた私は、ふと空を見上げて思いました。
「今日、めっちゃいい天気だな。今日だったら死んでもいいかも。」
そのまま交差点に自転車を押し進めていたようで、近くの八百屋さんの「危ない!」という声と車の急ブレーキ音で現実に引き戻されました。
この時感じたのは、死ねなかった、という残念な気持ちと、人に迷惑をかけるところだったという焦りでした。
当時のことをカウンセラーさんに語ったのはつい最近ですが、小学生しかも低学年でここまで思うのは相当追い詰められていたんだと思います。

ここから、私は8割死んだような気持ちで過ごし始めました。
残りの2割は、生存本能が1割・どこかにぶつけたい怒りが1割で、今でも変わっていません。

小学校の高学年で私立に通いたいと言ったら「あんたには無理でしょ」と受けさせてもらえなかったことをなんとなく覚えています。

中学生の頃の記憶は随分と曖昧ですが、試験勉強に全く打ち込めなくなったことだけは確実です。
そのことで毎日のように母から叱られていました。
唯一、国の首都を覚える小テストだけは気分が乗って満点を取れたのですが、母に「やればできるのに全くやらない娘」というレッテルを貼られただけでした。
その後の進路は母親の勤め先の事情で、志望校を決められ、学校に行かなくてもいいから試験に受かれと塾に3週間缶詰にされたおかげで、無事に第一志望に合格。その時に「運だけは良い」と褒め言葉なのかよくわからない賞賛をされました。

そしてこの時期に祖父が亡くなったのですが、葬儀の後に母親から名付けについてのぶっちゃけ話をされました。

「お兄ちゃんの時に、私の考えた名前じゃなくて姓名判断師に付けられちゃったから、あんたの名前もどうせ付けられないと思ってどうでも良くなっちゃったんだよね。」

この言葉のおかげで今も自分の名前が大っ嫌いです!
余計な情報ありがとう!

そんなこんなで、どうでも良い名前の子は高校に進学してから荒れに荒れました。
親の指定通りの高校に入ったことで授業料は免除。
一生分の親孝行は済ませたとばかりに、最小限のやる気で過ごしました。
保育園から始まった反抗期はまだまだ止むことを知りません。
成績は下から数えれば良い方、出席日数も最低限。
学校で保健室に逃げ込む私を見かねた保険医さんにもらった精神科の病院のHPのコピーは、カバンを漁った母に見つかり、「あんたのは病気じゃなくて甘えだ」と破り捨てられました。
あの頃は、自室に篭り、ひたすら寝ていました。
祖母の階段を登る音で起きて、イヤホンをつけて音楽を爆音で流す。
家族がいる間はもちろんイヤホンつけっぱなし。
家族の出す音が嫌で嫌でしょうがなかったです。
(このおかげで、未だにバックストリートボーイズの曲を聴くと心臓が痛くなります。ごめんねBSB…。)
こんな最悪な状況での唯一の救い(?)が、附属高校だったことです。
内部試験だったおかげで、なんとか大学生になることができました。

大学も授業料免除が効いたため、最小限のやる気で過ごしました。
その中で一つだけ今でも自分の選択に感謝していることに出会いました。
ドイツ語を専攻したことです。
今では日常会話がギリギリ、文章も辞書が無いと読めませんが、あの頃にドイツ語を学べたおかげで、今現在のオタク活動・創作活動がとても捗っています。高校生の進路を決めた時の私に大感謝です。
その頃から、PMDDの症状が強くなり始めました。
うっかりSNSに上げようとした「死にたい」と言う文章を母に送信してしまったのですが、返信は「そう言うふうに言われるのは悲しいので2度と言わないで下さい」と言うものでした。少しもやっとしました。
授業料が浮いたため、ドイツにホームステイに行くことができました。
のは良かったですが、帰って家族を顔を合わせた途端に母に「あんたが突然やめて帰ってくる夢ばかり見た」と娘の信頼ゲージ駄々下げしてくれた記憶が濃くて今でも思い出したくない記憶リストに入ってしまっています。

結局、最低限のやる気で過ごした私は就職できませんでした。
そんな矢先に兄が就職、地方に転居します。
母の過干渉先が私に集中し始めました。
完全にぶっ壊れてニートとなり、家で求人情報を眺めていた私に母が履歴書を持ってきて言いました。
「役所の臨時職員に登録しなさい。ダメもとだからね。」
相変わらず一言多いのをスルーしました。

言われるがままに履歴書を書いた結果、何故か臨時職員に採用。
そのままとんとん拍子で公務員試験を受けた私は、何故か地方公務員になっていました。

娘が公務員になりウハウハな両親とは真逆に、私はどんどん弱っていきました。
相変わらずの過干渉の母に仕事に着ていく服も決められ、入る保険も決められ、自由がほとんどない家が休まる場所ではないのに、公務員のお仕事はとてもストレスフルで、色んなところに気を遣います。
私の脳みそはひたすら悲鳴をあげていました。
帯状疱疹に扁桃腺炎に全身の関節痛などなど、ストレスで現れる症状全部出てたんじゃない?と思うほど、体調は最悪でした。

そんな時に、私の人生を大きく変える友人2人から連絡がきました。
それぞれ中学校での友人A、高校での友人B(ほぼ知人?)だったのですが、なんの巡り合わせか、SNSで再開したのです。
2人は私の相談を親身に聞いてくれました。
Aは「前から家族関係しんどそうだったもんね。」と過去の私を心配してくれていたらしく、初めて人に本当の意味で心配された私は、あの時本当に困惑しました。今思うと、あの言葉がなかったらこの文章を書けていないのは確実です。

Aに話を聞いてもらううちに、私は「ここから離れたい」と思うようになりました。

給料が一定貯まるまでは家にいたのですが、最後の勇気を振り絞って
「一人暮らしに憧れてるんだよね」
と、独り言のような相談をした私に返ってきたのは
「寝るためだけに帰る部屋に金払うなんてもったいない」
という言葉でした。

この瞬間、私は一生両親と分かり合えないことを悟りました。
私が実家で安心して眠れないことを、両親は知らない。知ろうとしていない。
あの家に住んでいた私の最後の絶望感でした。

お金が貯まってからは勢いで突き進みました。
とにかく、まずは絶対両親に反対されない部屋に住もうと少しお高めの部屋を契約して、事後報告しました。
そのころはまだ、完全に切った時の反応が怖くて何度か部屋に呼んでいましたが、距離を開けたことで近づくのがどんどん怖くなりました。

その頃から、悪夢を見るようになりました。
マンションの部屋のドアが突然開いて、両親が寝ている私を覗き込みます。
次の瞬間に、私は実家の自分の部屋のベッドに寝転がっていて、母親に罵倒され始めます。
心臓がバクバクして、耐えられなくなると目が覚めるのです。
マンションの部屋にいることにホッとして、また寝て、悪夢を見る。
繰り返しているうちに、朝、起き上がれなくなりました。
普通の不調とは違う感覚に、友人Bに相談すると「メンクリ行きなさい!」と言われ近くのメンタルクリニックへ。
そこで「うつ病」という言葉と出会いました。

最初は職場の上司とうまく行っていないのが原因かと思いました。
しばらく仕事を休み、家でぼーっとする時間が増えれば増えるほど、気持ちが落ち込んでいくのを感じました。
でも、職を失うのが怖くて、最短の休暇で復帰しました。

復帰した頃、親と会った時に事後報告で「ちょっとうつって言われちゃって休んでたんだ」と話しました。
「私だったらそんなみっともない休み方できないな」が答えでした。
自分の不調をみっともないって言われたのが辛い、と、生まれて初めて瞬時に自覚しました。
あぁ、私って傷つくんだ。と初めての感覚が新鮮で、とてもびっくりしました。

そこから親に対しての疑問が増え始めました。
外の人と話す時は後ろに隠れて、私に話させるのに、ちょっとでも盛り上がると「うちの娘がうるさくてすみません」と謝り始めるのはなぜ?
事あるごとに「私は宝石もブランドも買わないけど、あなたたちのものは何でも買ってきた」と主張するのはなぜ?
父は母は湯水のように職場の愚痴を吐き出すのを頷いて聞くのに、私が仕事の愚痴を零すと「あまり愚痴ばっかり言うのは良くない」と止めるのはなぜ?

悪夢と疑問と仕事と、キャパシティーオーバーになりました。
また、起き上がれない日に戻りました。
しかし、その時は職場の不満は特にない時期なのに不思議で、カウンセリングを受けた時にそのことを話したところ、今までの生活を聞かれたのです。

今までの生活を語ろうとしても直近の記憶しか思い出せません。
諦めて帰った次の日の朝、目が覚めた瞬間に、上記の記憶が全て頭の中を駆け巡り始めました。
形容し難い悲しい気持ちと、絶望感と、死にたい、楽になりたい、色んな気持ちが記憶と同時に浮かんでは消え、消えては浮かんできます。

走馬灯みたいだ、と思いました。

29歳で、20年以上、ずっと死にたかったことを思い出しました。

それから、治療をしつつ、AやBに助けてもらい、思い切って退職をして県外に引っ越すまで2年以上かかりました。

走馬灯は今も、頭の中で巡り続けています。

もしも、ここまで読んでくださっている方がいるのだとしたら、感謝しかありません。

まだまだ生きる気持ちではありますが、いつ終わっても、終わりたい気持ちに負けても後悔しないように生きれていると思います。

私の生きた証を見ていただいてありがとうございます。

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