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1月18日

雪空のような低い曇
陽がないせいで体感温度が堪える。

ごく当たり前に普通の方は親の命日を覚えているのだと思っている。
どういうわけか私は親が亡き後もお誕生日にお墓参りをしていたり、親の結婚記念日を覚えていて、写真におめでとう。と話しかけるのが日常になっているのだ。

ところが昨日、DVDの整理をしていて、かつての娘のライブDVDが出てきて7年前の1月17日だったので、その翌日が父の命日だと思い出した。←親不孝者である。

父は脳梗塞で午前中にお風呂場で倒れて電話にあまりにも出ないので、夕方にこれはおかしいと思い警察に連絡して家に入ってもらったところ、意識もありそのまま救急病院に運ばれた。
11月に裸で倒れたまま何時間も過ぎていたのに命を取り留めたのは奇跡に近いといわれた。

警察との連絡を取りながら福島から仙台へすでに車を飛ばしていた。スマホを娘に託してひたすらに仙台へ急いだ。

搬送先は仙台の広南病院というところだった。

その数年前に母を大腸癌で亡くし、父は一人で仙台の実家で猫と暮らしていたのだ。

東日本大震災の時も一人で猫と大丈夫だと気丈に踏ん張っていた。
その疲れもあったのかもしれない。

元気な時は短気だし、あまり会話らしきものもした事がなかった。父と娘ってそんなものかもしれない。
のちのち書きたいのだか、私は母の愛情欲しさに母にべったりだった。

父が倒れてから約二年間の闘病生活があった。
入院中に再び脳梗塞を起こし、治ったはずの言語障害が出ているのに、訴えてもバイタルはなんでもないと相手にされず、その翌日にお見舞いに行ったら病室を移されやはりまた脳梗塞を起こしていた。といわれ怒りでナースステーションに怒鳴りこんだ。
担当医に
「裁判でも起こしますか?」
と言われて
「医師会の弁護士に勝てるわけない」
と言ったら薄ら笑いをしていた医師。その辺は全部ボイスレコーダーに撮っていた。
いわき市のK病院のリハビリ病棟は友人も
「やっぱりK病院か。何度ナースと医者相手に怒鳴ったかわからない。とはいえ、その状態で転院は難しいよね。」
と共感してくれた。

そんな闘病と介護の日々。
綺麗事なことだけではなく、自分もイライラしたり、疲れ切って投げやりな言葉を父に言ってしまったりもした。ごめんね。

でも、初めて父と真正面から向かい合って笑ったり、一緒に歌ったり、ドライブしたり、行くたびに不自由になった右手のかわりに左手でかいたメモを渡してくれて、必ず私を褒めてくれた。 そのメモは宝物。
今もいつも持ち歩いている。

あれは神様か誰かが私と父へくれた大切な時間だった。

元気な頃から両親とも延命治療はしないと断言して頼まれていた。

病院から、胃瘻など延命措置をしますか?
と問われた時、意思を尊重して断った。

それからは、1日に点滴が一袋になった。
これでは、いつまでもつの?
と不安と胸が締め付けられるような寂しさに襲われたが、婦長さんに、この方が苦しくないんですよ。
と静かにいわれた。

亡くなる最後の面会の時、帰ろうとする私をずっと見ていて、ドアを開けたままにしてくれとアクションで教えて、私がエレベーターのところで振り返ると、ニッコリ笑って親指を立ててから、バイバイをした。

それが父の最後の姿だった。
最後までかっこよかったよ。

父が病院で息を引き取り、別居中の夫に電話をした。

いきなり
「何時だと思ってるの?寝てるんだけど。」
と怒鳴られた。
父が息を引き取ったことを話すと

「酒飲んだからいけない」

の一言で切られた。

こんなものだ。
何も期待はしていなかった。

泣いている間もなく、葬儀社を決めてくださいと、病院から一覧票を渡され、これが現実なんだなぁ、、、
と涙も止まった。

ふと一覧票の下の娘の足元をみたら
ソックスに鯛の絵がついていて

めでたい

と書かれていた。

こんなときにね。
失笑

父も娘もどんな時にあっても
怒りっぽいところがあっても
ユーモアで和ませてくれた。
二人はどことなく似ている。

人を喜ばすことばかり考えているのだ。

親戚も遠く、兄も殺人という形で亡くしているので、法事もなにもできないが、今夜は娘と早く帰って父の話をたくさんしようと思う。

父の大好きだった矢車草はお花屋さんには売ってないだろうなぁ。

1月18日。
今日も私は生きてます。
もっと活きられるように。
生きてるシルシを書いて行こうと思っています。

亡き人を思うとき

空を見るのは

宇宙に還ったから?

天国は空だから?

不思議だね。