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オタクについての乱文

先日、職場に新しい上司が配属された。
恰幅のいい、私より年下の男性だ。
「自分、オタクなんです」と臆面もなく、さらには屈託なく笑う上司を前に「私もオタクなんですよ」と自己紹介をした。
どうやら上司はアニメやフィギュアなんかの方面のオタクらしい。

私も、と自己紹介をしたが、私は一体何オタクなんだ。

ゲーム……も確かにする。が、Apexとか、荒野行動とか、Fortnite……はちょっとやったが昨今の「オタクなんです」に該当するようなゲームはあまりやっていない。ましてプロセカも、ツイステも、FGOとウマ娘……はちょっとやってるけどソシャゲもぼちぼちである。
アニメは呪術廻戦を途中まで、ウマ娘は観ると泣いてしまうのでタイミングを計って結局観れていない。
ウマ娘に関しては百合センサー(*美少女が二人いると"これは百合では?"となんでも勘繰ってしまう誤作動の多いセンサー)が働いて、労働で疲弊したところに致死量の百合をぶち込まれてしまう恐れもある。一回それで死んだこともある。
漫画、もそんなにオタク味の強いものを摂取している自覚がない。メロンコリニスタやギャグマンガ日和、頑張っても日常とあずまんが大王が関の山である。
腐った人間としてBL……は見なくもないけれど、詳しくないし、トーマの心臓とよしながふみとヤマシタトモコ作品が何冊か、くらいのもである。

果たしてオタクなのか……?私は……?アイデンティティが揺らぐ……。

twitter、もといXを眺めていると推しに狂った人々が阿鼻叫喚の様相を示しているが、私にそんな日常は訪れない。
オタクであるとはどういう状態なのか、そもそも形容詞なのか。

お‐たく【▽御宅】

読み方:おたく



[名]

相手または第三者敬ってその家住居をいう語。「先生の—にうかがう」

相手または第三者家庭敬っていう語。「—は人数が多いからにぎやかでしょうね」

相手の夫を敬っていう語。「—はどちらへお勤めですの」

相手属している会社団体など敬称。「—の景気どうですか」

ある事に過度に熱中し、詳しい知識をもっていること。また、そのような人。「アニメ—」

[補説] 51980年代半ばから使われ始めた言葉で、当初はやや軽視する言い方だった。仲間内相手に対して「おたく」と呼びかけたところからという。多く「オタク」と書き、また近年は「ヲタクと書くこともある。



[代]同等の、あまり親しくない相手を、軽い敬意込めていう語。「私より—のほうが適任でしょう

webilio辞書

ここでは5の意味である。
全然名詞であった。もしくは代名詞である。
あることに”過度に熱中”し”詳しい”知識を持っている人。
脳内にガノタ、鉄ヲタ、どうでしょうヲタが浮かんでくる。どの人たちもものすごく細かいところまで間違いを指摘してくる。やめてくれ。こちとら初心者、にわかだ。あとどうでしょうヲタは、一体リターンズとCLASSICを何周したらあんなふうになるんだ。ネタを振った時のレスポンスが異常に速い。

漠然としたオタクのイメージがいつまでも変わらないのはどうしてなんだろう。
チェックのシャツを着ているし、なぜかバンダナを巻いているし、ケミカルウォッシュのデニムだし、これは世代の問題のような気がしてきた。
実際男女問わず、オタクは年々おしゃれになっている。気がする。自分もそんなにおしゃれではないけれど、15年前とか20年前に比べると安くておしゃれな服が増えた。
十数年前の安い服は、折り返すと必ずAKBみたいな赤いチェックの布が貼ってあった。ベージュのチノパンの裾になぜ?とずっと疑問だった。パーカーのフードも、なぜ?だったし場合によっては謎のチェーンがついた、昔のビジュアル系をインディーズにしてさらに安くして高校生にした、みたいな服ばかりだったように思う。
そしてそれらを、服に金をかけないオタクたちは着ていたんだと思う。
私のオタクのイメージの解像度が一番「荒」が90年代のオタクだとすると「中」は十数年前の安い服、「高画質」のオタクはどうだろうか。
高画質のオタクは私の頭の中に二種類いる。

一つは現代のオタクである。それはもう、オタクではない。
アニメを観ることや、フィギュアを飾ったり推し活をすることが趣味のおしゃれで嫌味のない男女だ。熱意は一点に傾けられ、そのアニメのこと、造型師のこと推しの使用している小物、アクセサリー、化粧品についてその分野に関してなら何でも知っている。

もう一つは近代のオタクである。
情報を食べるオタクのことだ。私の身の回りにいる高画質のオタクたちはこちらのオタクである。
まず、この手合いの人たちは決しておしゃれではない。たぶん、おしゃれに関する情報は食べてもおいしくないのだろう。布だから。
しかし、どんなジャンルのことでも何かしらの返事をしてくれる。
今度PCを買い替えようと思ってる、と言えばSSDが、CPUは、Coreは、と一通りのことを教えてくれる。漫画の話をすると、たとえその作品を読んでいなくても「最終戦の導入は味噌汁作ってマズいって言って喧嘩になるよね」「封印されるんだよね途中で」「天才ですから」などと有名どころの有名なエピソードは大体知っている。そして言うのだ「読んではないんだけどね」。
このタイプのオタクが私の同居人氏である。私もどちらかというとそのタイプである。ほかに職場のS氏という先輩もこのタイプだ。
である。S氏はガンダムと特撮について右に出るものはいない。ガンダムと特撮以外の知識もおかしな方向に広い。
挨拶代わり、と言おうか戯れに「了解」とS氏に敬礼をした時、即座に「陸軍式だね」と返されて驚きを通り越して若干引いた。そんなこと意識したことが無かった。
このタイプのオタクたちは主軸+サブジャンル、もしくは主軸+拡大されすぎた一般教養を持ち合わせていることが多い。『お前の一般教養は一般教養ではなくカルトクイズなんだぞ』と思われることを平気で言ってくる。
ジャンルの幅が広すぎる故、どこまでも何でも知っていると思われているのだ。

近代のオタクと現代のオタク、違いは「主軸」と「付属する情報量」の差にあると私は考えている。
現代の方が情報が溢れているはずなのに、触れる情報が少なかった近代のオタクたちの方がなんだかよくわからない知識を蓄えていると感じられる。
ここに、インターネットへのアクセスと情報の取捨に対する考えや、年齢、環境が関わっているのではないか、と私は思った。
現代のオタクは興味のあるコンテンツに対して深く掘り下げることができる環境にある。それに引き換え、近代のオタクはインターネットの発生を間近で見つめていた存在なのかもしれない。
ダイアルアップ接続からISDNやADSLを経て光通信にWi-Fi、ネット接続のない環境の方が少なくなった。いつの間にかパケット通信料が込みのネット使い放題の携帯電話料金を支払うようになったのもここ20年ほどの話だ。
近代のオタクはインターネット黎明期と共に青春を過ごしたのである。
PCが徐々に普及し始め、各家庭に一台デスクトップ型のPCが置かれ、セクシーなサイトを見ては広告が消えなくなって青くなった正しく青春である。
それまでは本屋に行って雑誌を立ち読みし、お目当てのアーティストや作品のページを一読して購入して、家に帰ってから一言一句心の声で読み上げていた。ちょっと大袈裟に言った。
その間に目に入ったアーティストや作品をうっすらと記憶していったように、近代のオタクは興味の幅を広げていったのかもしれない。これは一個人の体験をもとに書いているが、私の青春はそんな感じであった。

「ggrks(ググレカス)」というフレーズもまた、近代オタクたちの知識を増加させたものだと思う。
有名な大型掲示板サイト、スレ住人の知識だけをアテにした書き込みをしていると告げられる呪文である。ggrks、もうgoogleで何かを調べるなんて老若男女誰でもやっていることになりつつある。
この呪文の為だけでなく、オタクは調べるのも、知るのも好きなんだと思う。更に言うなら、ひけらかすのも大好きだ。
現代のインターネットを用いたオタ活はすこぶる快適である。
一つのことをどこまでも掘り下げていける。書籍を用いて、個人のブログやTwitter(X)、Instagram、YouTube、どこまでも自分の知らないことを知っている人たちがいる。選択肢が増えているのだ。
膨大な集合知とそこから枝分かれした情報の取捨選択により、近代のオタクはその知識量を増やしていく。
そして現代のオタクもまた、情報の取捨選択により一分野に対しての情報の深さをどんどん濃く、また深くしている。
どちらが優れている、どちらがオタクとして正しい在り方か、と問う事はナンセンスである。世の中が進歩するにしたがってオタクの在り方も、情報の扱い方も、内容も変わるのだ。
どちらも同じ穴のオタクなのである。
そして何より私は、世の中の仕組みを知るのが大好きな近代オタクなのだろう。

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