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遊びの社会学2022 ・実践記録No.3 -おもちゃとは何か-前編

【好きな・好きだったおもちゃを持ってきてね】

事前におもちゃを持って来られる人は持ってきてねとお知らせしておいたので、4人おもちゃを持ってきてくれた。

昔遊んでいたけん玉や、今も弄っているモデルガン、Nintendo Switch、古いけど現役のDS。
エピソードと共に紹介してもらう。

ここで確認したかったのは「おもちゃ」と聞くと何を思い浮かべるか?多くの人は既製品を思い浮かべるけれど、子どもが「おもちゃ」として遊んでいるものはもっと幅広くないだろうか?という問いと、「おもちゃ」に対する今の固定観念を確認する。

「カプラ」は木片か?

ーおもちゃをおもちゃたらしめるものとは何かー

ワンサイズの木片がたくさん集まったいわゆる積み木だが、木片がそこに落ちていたら、「おもちゃが落ちてる」と皆は気がつくか?もしくは「これで遊ぼう」と思うだろうか?そうすると、同じ木片を見ていても「おもちゃであるときとそうでないとき」がありそうだね。ということから、おもちゃをおもちゃにするのは何か?という問いから話を始めた。

柳田國男の『こども風土記』からおもちゃの3つのタイプを探る

  • 身近にある自然物

  • 弄びもの/日用品

  • 買うて与える玩具

息子の遊んでいる動画を見ながら、どんなものかを確認。
遊び方の違いなども視覚的にわかる。
学生も「あるある」という感じで見ている様子だった。

和辻洋三の疑問

「柳田のこの解釈には無理がある。1、2は確かに玩具の起源だが、3は玩具そのものである。
私が玩具の起源として解釈するものは柳田の①自然、②日用品に加えて③人間そのものを加える。手や指や人間を玩具にしたものにおしゃぶり、指人形、人形などであるからである。」
→そうすると、自然、日用品、人間がおもちゃの起源とすると、むしろ、おもちゃでないものってある???

おもちゃとは「可能性」

  • 私たちはすべての「もの」におもちゃとしての関心を持つことができる。

  • おもちゃとは、わたしたちがこの世界にあって、対象として把握することのできるすべての「もの」に対して与えることのできる、 ひとつの可能性ということである。

  • おもちゃが先にあるわけではなく、人はすべてのものをおもちゃにすることができる。

この話からシュッツの「多言的現実」、ソシュールの「シニフィアン/シニフィエ」について話をし、同じものを見ていても、同じものを捉えているとは限らないということや、「私とあなたが見ている世界は違う」ということが前提になっている、そもそも世界は「多様」という多様性についても話をした。

→この話を準備しならが、別に担当している講義「生活芸術基礎」で伝えたいことはここだなという要点が見つかったように思った。
「私とあなたは違う」、そして、違う中で、分かり合うために言葉が持つ限界を知り、音や色・形、身体などを媒体(メディウム)として表現し、また鑑賞し、私が見ている世界をあなたに見せ、またあなたから見える世界に近づこうとするのが芸術であるということ。
そして、「遊び」とは、すべてのものをおもちゃにする可能性を持つ世界であると同様に、さまざまな事象をさまざまに見ることを可能にすることができる世界であるということを改めて理解した。
授業を準備しながら、思考が整理されて、とても腑に落ちた。

遊びの世界と中動態

ではどのように「遊びの世界」とやらに入っていけるのか。
「私は剣が欲しいです!」と言ってから、木を探し始めるのではなく、そこに木があるから闘いごっこが始まる。
これは主体的と言えるのだろうか?遊びはやりたいからやるという主体的なものかと思われているが、実は私の外側から誘われるように「やってくる」ものではないか。

ワーク「両手を合わせてみる」

両手を合わせて、右手に集中してみると、「右手が左手に触っている」
一方で左手に集中してみると、「左手が右手に触っている」
右手は左手に触れている(主体)けれど、左てに触れられている(客体)が同時に起こっていない?
この「両手が合わさっている」という状況はどっちが主体でどっちが客体かとは言えないよね?
遊び始める子どもとおもちゃの関係もこのような関係。
このような関係を
・間主体性
・中動態
・アフォーダンス
などから諸々説明。

→リフレクションシートには「主体性という言葉に感じる矛盾や気持ち悪さが解消された」というようなことがあり、
國分功一郎 『中動態の世界 意志と責任の考古学』のAmazonの 紹介文にも
「哲学研究の世界ではここ100年ほど、自発性、主体性、言い換えれば“意志"の存在が疑われています。 僕は実際に“近代的意志"の存在を前提とした“常識"が人間に明確な害を及ぼしている現場に遭遇した。 依存症の方々は、意志が弱い、と周囲から思われ、自分を責め続けています」と書かれており、
「主体的であれ」というようなケアを必要とする人だけでなく、近代的な主体性の教育の文脈の中で苦しさや異和を感じている人は少なからずいるのだろうと思う。
「遊び」というフィールドで研究をするものとして、この「主体性」への懐疑性は持ち続けたいなと思わされる学生の声だ。

長いので、まずはここまで。

今日は90分喋り続ける講義だったので、私自身疲れたなという感じもありつつ、居眠りするような学生は誰もいなくてとても快適に喋れたということだけは綴っておこう。
息子が全身で遊んでいるビデオに助けられたところも大きかったように思う。


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