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「死にたかった」あの頃を振り返ってみた

X(Twitter)で「〇〇で人身事故があったら、それたぶんわたしです」という呟きを見つけた話です。

その呟きのコメントには、本当に〇〇で人身事故があったというニュース記事が引用されていました。そして、その投稿以降、アカウント主の投稿は無し。

ただの偶然、ただの嘘、ただの一時の感情投稿であってほしいと、私も、み~んなも願ってます。

名前も知らない誰か。それなのに「死」とはなんでこうも悲しく、切ない気持ちにさせるんでしょう。
誰もが「死」を背負って、どこか自分事だからなのでしょうか。

わたしも、「死にたい」なんて、しょっちゅうでした。特に若い頃は、ほぼ毎日のように漠然と、そして強烈に思っていました。

実は今だって思うことはあります。
だけど、生命には生きられる限界があることを学び、老いていく自分の身体で「嫌でも死ぬんだ」と体感してから、死にたくないと思うようになりました。

でも、「死にたい」というものすごく強いエネルギーが爆発するその瞬間。それは突発的で一時的な感情かもしれませんが、
それは恐ろしく避けがたい威力があって、そこへ飛び込んでしまうものだと感じています。

よく、死はたった一歩先っていいますが、本当にその通り。その一歩を踏み込んだ瞬間、それはもう強いエネルギーで、自分を殺すことになります。

わたしの中で「死」というのは、ブリーチの瞬間を連想させます。

中学二年生。トイレでブリーチ剤を塗って金髪にしました。そのときのブリーチ剤を塗る瞬間の躊躇する気持ちが自殺の一歩手前の瞬間と重なります。

でもその瞬間を通り過ぎたら、もうそれからは躊躇する暇はない。

でもブリーチはただ髪色が抜けて、金髪(オレンジ)になるだけですけどね。「死」とは全然比べものになりませんよね。

あ、ピアッサーをガッシャンコ!ってしたあの瞬間にも似てるな。

入れ墨を入れた瞬間は、なんか「死」とは違うな。あれは、強い存在になれるような気がして意を決した、生きようともがいた証のようなそんな感じだなぁ。

++

それから、「自己解体プログラム」ってのも、連想します。

自己解体プログラムってのは、簡単に言うと、身体(DNA)に組み込まれた細胞が死ぬメカニズムってやつだそうで。

遺伝子が造られた本来の環境があって、環境条件が本来の状態とずれてしまうと、ふだん読まれていない調節遺伝子(適応のためのプログラム)にスイッチを入れて呼び出します。

すると、それまでになかった酵素を作りだしたりするそうです(大腸菌がそれまで食べれなかった乳糖を食べれるようになるというメカニズムみたいな)。

適応の「遺伝子発現」のスイッチを入れるのが環境不適合というストレスだそうで。
ストレス状態は、普段は使っていない酵素を合成するなど、エネルギーを使っているため、(身体的・生命的に)コストが大きいといいます。

また、遺伝子にあらかじめ組こまれている適応のプログラムが対応可能な範囲に限られているそうで。
すべての適応の遺伝子発現のスイッチをいれても環境に適応できない場合は、寿命がつきたときに働く「自己解体プログラム」にスイッチを入れて、

生命を自ら終結に導き、すべての生命の再利用に適した共通の部品に分解して土に返すのだそうです。

これが遺伝子にプログラムされた利他的自己解体(自己解体プログラム)というメカニズム。単細胞生動物を使った実験で、実際に確認されているそうです。

この話を、通信大学で習ったとき、
「あぁ、だから死にたくなるのかな」なんて思いました。

このメカニズムは、遺伝子・細胞レベルの話ですが、
環境への不適応が原因で、心理的にもそのように感じさせる自然の体内因子があるのではないか……。でも人という個体で見れば、いくらでも環境適応を挽回する機会はあるのだろうけども。

難しい話ですなぁ。

兎にも角にも、
いま生きている自分に感謝。家族に感謝。みんなに感謝。
名前の知らない誰か、みんなの大切な一度きりの人生のすべてに敬愛を贈ります。

ってなことで締めくくりたいと思います。


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