見出し画像

「あなたにとって『頭が良い人』とはどんな人ですか?」という質問

昨日は、若者達が言葉と思考についてあーだこーだ語り合っているのを横で聞いているのが楽しくて、つい朝5時まで付き合ってしまった。私は知的で文化的な営みに興じる若者を愛する。耽溺していると言ってもよい。そこに若者達のむき出しの感性やコンプレックスがスパイスとなればなおさらである。(性格が悪い)

楽しませてもらった返礼という訳ではないけれども、自分なりの考えも示さなければフェアではないと考え、以下に記すことにした。何年か後に、私の子どもたちの役に立つかもしれないという若干の下心も含まれている。


言葉には、コミュニケーションの手段という側面と、思考のOS(オペレーティングシステム)であるという側面があると私は考えている。

このうち、前者については様々なノウハウ、HowToが世間に公開、共有されているから、ここであえて偏った私見を開陳する必要はないだろう。

語彙(基本パーツ)

思考の基本パーツは語彙である。語彙が貧弱な人は、貧弱な語彙の範囲でしか思考できないから、世界の解像度が低い。ぼやけた視界で眺め、ぼやけた思考で考えるので、ぼやけたことを言う。

語彙の広さ(頭の中にしまってある言葉の数)もさりながら、深さ(それらをどれだけよく理解しているか)、の方がよほど大切だ。

語彙を広げたいなら、何か興味のある分野についての文章や映像を短期間に大量に浴びればよい。その中で、知らない言葉に出会ったらその意味を調べて、記憶するだけでよい。

語彙を深めたいなら、ひとつひとつの言葉のパラフレーズを自分がいくつ考えつくかを確かめてみるとよい。夏という言葉を、夏を使わずに記述する。海という言葉を、海を使わずに記述する。紅葉という言葉を、紅葉を使わずに記述する。思春期という言葉を、思春期を使わずに記述する。愛という言葉を、愛を使わずに記述する。アヘ顔ダブルピースという言葉を、アへ顔ダブルピースを使わずに記述する。

自分がその言葉をどれだけ理解しているかは、口に出してみるまでわからないと思ったほうがよい。人にものを教えることが、むしろ自分にとって非常に良質な学びになる、ということを経験した人は知っているはずだ。

文脈・抽象化

思考を支える重要な骨組みとして、文脈を把握する能力も重要である。誰かの言葉を理解(=INPUT)するために文脈を捉えるという意味でも重要なのだが、むしろ誰かに説明(=OUTPUT)するために、もともと置かれていた文脈と異なる文脈に言葉を転用したり、A->B の関係性となっていることがらを、C->D の説明の比喩として用いたりできることがより重要である。

言葉、思考を文脈とともに正確に捉えることができると、それらの一部分だけを入れ替えて新たな思考を成立させることができる。逆に、入れ替えなかった部分だけを新たな概念として定義したりもできるようになる。

文脈を把握する能力には、弁別と同定の精密さが密接に関わっていると私は考えている。りんごとオレンジには違いがある。一方、りんごとオレンジには共通点もある。何が違うのか。何が共通しているのか。一途な片思いとストーカー行為の違いは何か。何が共通しているのか。そういったことを考える回数が多ければ多いほど、この弁別と同定の精密さは向上していく。これは、抽象化の能力、と言い換えても良いかもしれない。

抽象化の能力が鍛えられると、思考の精密さと柔軟さは桁違いに向上する。ただ単純に語彙の組み合わせのみで思考している状態とでは相が変わる、と考えて良い。

語彙の組み合わせのみで思考している状態は、Google検索と大差がない。その状態で語彙の深さ、広さをいくら拡大しても、それは知的、文化的な営みにはなり得ない。知識だけで語られる話がつまらないのは、知的でないからだ。

文脈の把握、抽象化が自在にできるようになると、自分なりの思考の枠組み、フレームワークを作ることもできるし、そのフレームワークを使って世界を再解釈することもできるようになっていく。

補足:相転移

ここ最近は、私も含めてほとんど大多数の人間よりも、AIの方が賢い状態になってしまったと感じる。

AIの飛躍的な進歩の背景についての非常に興味深い話がある。ある種の相転移が生じたのではないか、というのだ。

計算量を倍、倍としていけば、それに応じて精度がちょっとずつ上がっていくと、研究者たちは想定していたが、計算量やデータを増やしていったところ、完全に飽和していたと思われた精度が、ある量を境に、急激に改善したらしい。

なぜ、こんな転換点が存在するのか、この現象はいまだに理解されていないが、量が質を変える現象がAIでも「発見」されたのだ。

化学の授業で習った1個の原子では水が氷になる現象は起こらないが、10の23乗個の原子があれば、水は氷になるというあれと同じ話じゃないか。

http://scenedesign.jp/2023/01/30/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3/

水の原子が10の23乗個集まると氷になるように、計算量が10の23乗を超えると知の質が変化するという風にも見えるこの話、非常に興奮しませんか?しますよね?しないと駄目ですよ?

私は、人間の言葉、思考にも同じような現象が起きているのではないかと思っている。つまり、一定の量の語彙が蓄積されるまで、知的・文化的な相への転移が起こらないのではないか、という予感があるわけだ。

したがって、これから頭が良くなりたいと考える関係各位におかれましてはまずは本と漫画を読み、映画を鑑賞し、行ったことのない場所へ赴き、新しい経験を増やし、自分の頭に収められた語彙の広さと深さを10の23乗相当のレベルまで到達させることが目下の目標となるのではないかと愚行する訳です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?