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力を抜く、自己観察。自分と人とつながる。それって‥

 “歌系の趣味”をなぜ続けているのか、と問われて、「生き方を考えるために続ける」と、答えたことをきっかけに(この記事で紹介しています)、“歌系の趣味”にまつわるエピソードから自分観察してみようというテーマ6回目です。
 なお、タイトルにいちいち「“歌系の趣味”から自己観察n」と入れていると、長くなるので、今回からタイトルには表示していません。その代わり、この様に、冒頭でご案内することとしました。


 自分の沿革から進めていくつもりでしたが、これもまた長くなりそう。ですから、そこからはちょっと脱線ですが、余談というわけではなく、このシリーズを思いついた動機の大きな要素です。

プロローグとして


 星野富弘さんの1つの詩の一部引用します。

人間だって どうしても
必要なものは
ただ ひとつ
私も
余分なものを
捨てれば
空が飛べるような
気がしたよ
(星野富弘「たんぽぽ」の後半部分を引用)

 星野富弘さんと同じ群馬在住なのに。ましてや、星野さんが怪我をした学校までは、徒歩圏というくらい近いのに。この詩を知ったのは、合唱曲に作曲されて、それを聴いた方が先でした。私の知る範囲で、合唱、歌曲に、3人の方が作曲しているほどの秀作。

 さて、詩を哲学的に解釈し始めると、キリがないのでやめます。
 ただただ、余計なものがなくなると、空を飛べる。という詩でしょう。
 それだけでいいと思います。しかし、哲学的な解釈はやめると言っても、「ただひとつ」はなに?とか、「空を飛べる」とは何を意味しているのだろう、ということは考える必要があるでしょうか。それはしかし、各自の解釈、しかも、その瞬間のそれで良いと思っています。一つの解釈に固定することこそ、余分なものを捨てられていないのだと。

どこまでも自然に

 このマガジンに入れてある以前の記事でも触れましたが、最大で7つの掛け持ちをするほど、合唱にはまっていた時期がありました。中には熱心で、合唱練習だけでなく、一人ひとりの団員の個別発声指導をして下さる先生もいらっしゃいました(大きな合唱団だと、別にヴォイストレーナーがいたりしますが、私はその様な大きな合唱団にいたことがないので、指導されている先生直々です)。その他に個別に発声を教えていただいたりもしているので、それらを全部合わせると、今までに(数え方にもよるのですが、単発をのぞいて)4人の先生にご指導を受けたことがあります。
 この分野、指導者によって、言葉の意味や表現がバラバラ。ということも実感しました(それはこの業界の指導の皆さんに是非、再考していただきたいとも思うのですが)。しかし、その中で唯一、表現こそ違えど、4人の先生が全て共通して、伝えようとしていることがあります。それが、このサブタイトルの事だと認識しています。
 どこまでも自然。ということは、無理がない。力みがない。余計な力がない。いたずらな操作はしない。自然な物を邪魔しない(でも、「必要なもの一つ」は、忘れずに)。
 ある先生の表現だと「人は、オギャーと生まれて、一番自然な声を持っているのに、成長と共に余計な物を纏ってしまった。それをいかにして取り払うかだ」とまでおっしゃっています。一枚一枚、余計な物を剥がしていく。それが、声を追求する作業なんだ、とも。
 そして、自然に近づけると、声も軽くなります。気持ちも軽くなります。それこそ、飛べる様な気持ち。それは快感です。自然に近づけると、気持ち良くなります。自然に近づけると、迷いがなくなります。だから、良い声の出し方ができているかどうかは、喉を痛めない。すなわち、自然で無理がない。これはよく言われることで、発声に問題のあるプロの方が喉を痛めると、ここを指摘されることもよく聞きます。しかし、それは、末期の話で、そもそも快感を感じられるか。何もしていないのに「本当にこれでいいの?」というくらい当たり前の感覚になっているかどうか。え、自然なんだけど、これで良いの? こんなに何もしないで、いいんだ。みたいな感覚。などと表現されて教えられてきました。

自己観察の解像度を上げていく

 分析できる機械の進歩で、人が声を出すメカニズムは、20世紀にはずいぶん解明されたらしいことは間違いありません。しかし、人が自由に動かせる筋肉だけを使って全てがコントロールできていないのは、どうやら現在の研究でも否定はされていない様です。いわゆる、「不随意筋」というやつです。でも、不随意筋がこういう作用をしていると、いい音色、響きのある声になっている、というのは、かなり分析されている様です。そうすると、不随意筋を何らかの方法でコントロールするというのも、自然な声の出し方に近づくアプローチの一つになります(と、理解しています)。

 誰でも思いつくであろうこととして、嬉しいことがあったあと、声は意識しなくても、トーンが上がります。声はしょせんは空気の振動。その表れですから、空気を振動させることに携わっている随意・不随意を問わず、あらゆる筋肉、体の部署が、トーンが上がる音を出す様に動いているのは確かでしょう。だから、トーンか上がる音を出すように体の部署が動く心理状態をコントロール出来れば、トーンが上がった声を意図的に出せるはずです。

 だから、まずは色々試してみる。たまたまいい音が出たら、「今、何をしたか」「今、どう感じたか」。いい音が出た時の体の体制、気持ちの状態。それを確認して、意識的にその気持ちに近づけたりすることで、習得していく部分はあるのかな、と思います。
 そう思うのは、どの先生も、良い音が出たときは、「今、何しました?」とか「今、どんな気持ちでした?」とか。それを問いかけることをされるからです。それを繰り返すうちに、どんどん観察の精密さが求められます。精密になっていかないと、新しい発見がしづらくなるからです。自己観察して、その解像度を上げていき、良い瞬間をふやす。そんな作業なのかもしれません。

それって‥

自然に、そして自己観察の解像度をあげる
 余計な物を捨てる?  プロローグで紹介した星野富弘さんの詩そのものです。
 捨てたら、空を飛べる。自由になれる。気持ち良くなれる。快感になる。
 一つだけ大切な物を残して、です。
 力みや、無駄がなくなると、気持ちよくなれる。悩みや余計なことがなくなると、気持が楽になる。

 自分を冷静に見て、自己観察しよう。自分と繋がろう。本当の自分はなんだろう。不安ばかりの世の中だからこそ、自分を見つめなおしてみよう。随意筋だけでなく、不随意筋の動きを直接ではないにしても模索するのは、深層心理を意識するのに似ているかもしれません。

 そういうことって…。なんか、最近言われているこれらのことと、何も変わらない。たまたま、声と対象物を特に意識して実施しているだけ。

 と、気づいたのは、もう結構前でした。

自分を追求して、他人や社会と関係を発展させる
 私は、歌の練習より、発声の練習が実は好きだったりします。このマガジンのここまでで書いたように、恐怖との戦い。人の評価との戦いと、その克服を目指す。そんなものがあるならば、気持が楽になる発声練習の方がよほど楽しい。

 でも、自分を観察して、自分を探すだけでは、山にこもって「修行だ」と言って自己満足しているだけとかわりません。人とつながって、社会と関係をもって、自分らしさを活かさないと。
 歌として人前で表現するのは、批評を含めて反応もあります。声をどうだすのか、というテクニックだけでなく、内面をどう表現するか。理解した音楽と詩をどう伝えるのか。そこには、さらに深い「自分」が具現化されます。

あらためて、このシリーズの意味を確認
 note に初投稿して、比較的初期に、このテーマ「“歌系の趣味”から自己観察」で考えてみたいな、と思ったのはこんな事情もありました。いずれ機会をみてふれることがあると思いますが、趣味だからこそ。プロがそれを考えるのは当然だと思っていますが、趣味なのになぜそこまで考えるのか? というのも、このシリーズの動機のひとつになっています。

 日曜日に、高崎市民音楽祭を会場で拝聴して、自然に、自分らしさを発揮している声、器楽の演奏ならば音ほど、会場の響きが演奏者を応援しているな、と感じて思い出したので、今回、綴ってみました。

 写真は、今年の発表会で、テノール・バリトンのデュエット(Cosi fan tutte : Secondate, aurette amiche)を歌ったときの写真です(その後、本来は合唱がはいるのですが、人数の都合で、4人で歌っている写真)。

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