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「この道」からつながるこの道

「この道」という、歌曲? 童謡があります(北原白秋作詞、山田耕筰作曲)。

いきなり脱線ですが、歌曲と童謡、歌曲と流行歌って、本質的に何が違うんですかね。故林光先生が提唱していた、song も明確にはわからないのですが、これが入ってくると、さらにわかりません。

脱線から戻りますが、「この道」は、歌が趣味というか、若かりし頃はそれを生業にすることを目指していた父が、よく話題に出す一曲でした。

いわく。

「この道」の、1、3節は、どちらも、「この道はいつか来た道」で歌い始められる。これをどの様に歌い分けるか。それをみれば、(歌手としての)レベルがわかる。

そんな趣旨のことを、しばしば口に出していました。

この道を53年歌ったことがなかったこと

そういう話を、幼少時代から、中学くらいまで聞いていましたが、私、実は、現在に至るまで、この歌をまともに歌った記憶がありません。
少なくとも、学校の授業での記憶はないし、もしかしたら、バス旅行などで歌ったことはあったかもしれません。
合唱を趣味としてから、何百回も、合唱に編曲されたものは聴きましたが、私が所属する合唱団では、たまたま、取り上げることもなく。

でも、主旋律は覚えているし、1番くらいは歌詞も覚えている。だから、真剣に歌ったことはないものの、何かのイベントで、みんなで歌いましょう! みたいな場面ではあるのかもしれません。

いずれにしてもその程度なので、父の言っていたことは、想像もつかないままでした。

53歳にして初めて取り組む

そんな中、この歌の混声四部版に取り組むことになりました。合唱ファンには定番の、故・林光先生の編曲のそれです。

先日の練習で初めて歌って、まだ、歌詞の読み込みなど、十分な段階ではないのに。

言葉にできないほどの違いを、1番の歌い出しと、3番の歌い出しで感じていました(ちなみに、混声合唱に編曲されたものは、1番~3番までは、ハーモニーは同じ)。それがどう違うのかは、これからの取り組みで明らかになると思います(明らかにしたい)。
でも、それを感じた瞬間、“父の言っていたのは、これか” と、冒頭の父の話を思い出しました。
これを感じないでこの歌を歌う、感じてもそれを表現できないならば、歌手のレベルは推して知るべしだ。と、実感したのでした。

逆に、だから、これ、怖いことです。
本番(人前でこの歌を歌うとき)までに、自分は、歌い分けを表現できるほどになれるのか。

詩だけではなく、音楽だけでなく

歌というのは、実に不思議なもので、詩単独で読む時と、それに音を伴う時と、それを音楽として表現するときと。それぞれが独立していたら、意味はないと思います。音が詩を引き出し、活かし、表現がそれをさらに色濃くして。ここまでで少なくとも作詞、作曲、歌手の経験、感情、背景が積み重なっていきます(逆に言えば、積み重ならなければ、単独で詩を朗読した方がいいし、メロディだけを奏でた方がマシだし)。

そして、優れた作品は、今回の私のように、まだ、理解が十分でない段階の人にすら、圧倒的な何かを感じさせるのだな、と。それを受けとめて、十分に自分のものにして、表現しなければ、これまで培ってきたものたちに申し訳ないじゃないですか。

つながりが重なり合って新しいものへ

作詞家、作曲家、歌手と表現しましたが、人の営み、なんでもそうでしょう。
それぞれの経験、知識、感情、技術、背景。さらには、その場。それらが紡ぎ出すハーモニーの繰り返し。

そのためには、効率性とか、合理性とか、そういうものでは片付かない。

まさに、生き方につながる経験と、想いを、思い出させられるひととき、経験を、「この道」に初めて取り組む中で、覚えたのでした。

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トップの画像は、みんなのフォトギャラリーで、「この道」で検索して、お気に入りのものを使用させていただきました。提供者の方に御礼申し上げます。

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