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家族問題を感じたことがない幸せモノ~家族関係も自分で決める

 たまたま、家族、とくに親子の問題の話しを聞くことが続きました。
 
 ただ、聞くだけであって、助言を求められたり、というわけではないそれ。だから、自分の場合はどうだったかなー、と思う余裕があって、考えてみたのでした。
 
 その結果、そういう家族の問題、親子の問題を経験しなかった、記憶にないのは、シアワセモンなのだろうか。

親子関係の問題(対立)は、節目で生まれる?

 ちょっと考えて思ったのは、親子の対立は、前半は子供の節目、後半は親の節目が、“勃発要因” になっている気がしました。

 最初は、子供が多感な時期に自我が芽生えて対立するかもしれないけれど、だから、その後は、自立した人格として、お互いになにか変化があるときに、意見がわかれるのがその理由と推測できるのかもしれません。
 
 たとえば、進学、就職、結婚、子育て、転職や転居。そんな子供の人生の節目で、親と意見が対立するというのは、比較的想定しやすいのではないでしょうか。
 そして、後半の親の節目は、定年、病気、相方配偶者の死、老後生活設計(ようするに、老後貧困)、病気や老化にともなう介護、看取り、相続対策…。

私の“勃発要因”としての節目

 私は、こういう私の節目、親の節目が、奇跡的に少なかった、というのが、シアワセモンでいられた理由としてまずは考えられます。
 進学は、私がよほど強い主張をもっていないかぎりありえない学校に通っていましたし、自我が芽生えてうんぬんは、相談できる大人が身近に沢山いた、という幸せな環境でした(たとえば、この記事のような環境)。その上、親も結構あっけらかんとしていたので、対立の要素すらありません。
 就職は、両親ともに非サラリーマン家庭出身で、私が子供のころも勤め人でなかった両親。だから、私が就職せず、現業を個人事業主としてはじめることは、むしろ自然なそれだったようです。
 その後の、結婚、子育ては私はしていませんし、やりたくてはじめた仕事だけに、転職もなし。転勤が必要な職業でもないですから。

 後半としてあげた親の節目のそれは、父親は離婚していなくなったし、母親は定年という概念がない働き方。一往、母の病気がきっかけで退職(引退)はしましたが、それからわずか半年で体調をくずし、多少なりとも生活支援が必要な健康状態になりました。だから、相方の配偶者の死とか、定年という節目は事実上ありません。

 そうすると、唯一、病気、老後貧困(母は年金を十分にかけていなかったので)、病気にともなう世話、というところは、私にもポイントがあったことになります。

親の扶養をしたつもりはない~やりたいことの一つとして

 ここは、一言。親だから世話したり扶養したのではない。やりたいから、やりたいと思わせるような“魅力的なおばあちゃん”が目の前にいたから。それだけです。だから、自分で選択しました。目の前にいる“魅力的なおばあちゃん”の世話を最期までしようと。自分で決めたのです。

 途中で、“魅力的なおばあちゃん”の世話がなかったらやってみたかったな、というものには何度か遭遇しました。でも、自分で決めたのです。自分できめたのに、「後発の誘惑」にまける方が自分らしくない。そう考えて、やりました。そうしたら、楽しくなって、最後は、趣味の一つと考えていました。当時、facebook には日記のような投稿をしていましたが、母=“魅力的なおばあちゃん”の世話が終わった日は、「趣味がおわってしまった」と投稿しています。なんのかざりもない、偽らざらぬ感想として、親の死をそのように向かえることができました。

まぁ、一つ節目は残っていますが…

 相続…実は、これだけまだ未解決。一番ホットな話題になりそうな異父兄弟がいました。「た」と過去形です。母より先に兄はなくなりました。でも、生前は、ふつうの兄弟のように、とまではいきませんでしたが、年2回程度、兄家族と私と母で、「親族旅行」にいくような関係でした。甥が代襲相続人ということになりますが、甥とはいずれ話をしないといけないな…。でも、彼の性格的に、半分よこせは言わないと思いますし、言ってきたら、それはそういう事情があるのだろう、と、応じることも考えています(でも、母生前の介護や医療費負担分くらいは争うかも)。

くりかえしますが、自分で決めて選択すれば…

 最後の甥との関係は、まだ将来のこととして残ってしまっていますが、今回のことをきっかけに、自分の家族問題を整理すると、そもそも問題勃発要因が少なかったことと、数少ない要因は、自分で考えて自分できめたから、(第三者がみていると)問題なのかもしれませんが、当事者である私は、なにも問題だと思わない。自分の判断で自分のやりたいことを決めて、それを実践しただけ。という形で問題にはならなかったといえると思うのです。
 そう思うと、家庭の問題も、自分で自分のことをしっかりみつめて、本当にやりたいことを見定めて実践すること。それが一番の解決策のように、私は(以上の経験から)思いました。

 ちなみに、さきほどはサラっと流しましたが、子供にとっては節目になるかもしれない両親の離婚。これも、どっちについてくる?という、お決まりの質問はありました。いや、もう二十歳すぎていましたから、どっちにもついていかない、という選択も十分ある場面でした(だから、どっちについていって、育ててもらう?ではなく、どっちについていって、老後の面倒を見る?という側面が強いそれでした)。

 わすれもしない、私の二十歳の1月15日に、成人のお祝いで外食しようとでかけて、そのレストランではじまった喧嘩がきっかけでした。そして、大学2年定期考査の期間は、毎晩二人は大喧嘩。でも、そんな中だったからこそ、夫婦喧嘩で成績がさがるのは、自分で自分が許せないと、生涯最初で最後、成績にこだわって試験を受けました(私は、大学の4年は、定期考査だからと特別な勉強をしない主義でした。だからかもしれませんが、そうしたら、生涯最高の成績だったのですが)。そんな20才前後だったので、離婚も親の決断。わたしには関係ない。私自身の意思にしたがい、悩むことなく自然にそう思えました。
 
 これも、自分の判断で自分でやりたいことを決めて実践の一つにくわえられるかもしれません。
 そして、シアワセモンかもしれませんが、それは、自分で自分の選択をしてきたからだ、という自負も私はもっていることを、今回、考えるきっかけがあって気付くことができました。

でも、一つだけやはりシアワセモンだとしみじみ思うこと

 そんなふうに思うのですが、自分の母親が、「魅力的なおばあちゃん」と思える人物だったことは、偶然です。このことは、しみじみシアワセモンだったなー、と思います。

 私の友人ともふつうに会話を楽しみ、私はいいからかあちゃんと飲みにいきたい、と言った友人もいました。
 とにかく自分に正直な言動は数知れず。弱音をはかない、というタイプではなかったですが、逆に、すなおに弱音をはくところが、自分をさらけだしせる本当の自分をきちんととらえた生き方だったのだと思います。

 そんなことも感じてはいましたが、「魅力的なおばあちゃん」を決定的に思わせたのは、認知症がかなり進んだあとのエピソード。医者には死を覚悟してください、といわれた状況を乗り切り、数カ月ぶりにことばを発したときのエピソードでした。その言葉は、

「うれしい、ありがとう」

でした。看護師さんが体を拭いてくれたときのことです。全身で、力強い声で発したのがこれです。
 状況的には、もう、見当識もない状態。だから、身体が、深層心理が感じたことそのままに、気持を発した発言だと推測できます。それが、

「うれしい、ありがとう」。

 周囲の状況がわからない状態で、なんの忖度もなく、「うれしい」と「ありがとう」を言えるような人になって死にたいな、と学ばせていただいたエピソードでした。
 ここは、「魅力的なおばあちゃん」ではなく、親としての母に感謝したいと思っています。

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冒頭の写真は、たぶん、母が生前最後にアルコールを飲んだときの写真です。母の80回目の誕生日。ちなみに、飲んでいるお酒は、生前好きだった、ジャックダニエルの水割りです。

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