盛るのは嘘の始まり〜その2(削るのも嘘の始まり)

 あまり観光というものに関心をもっていないこともあるだろうが、「日本三大がっかり」というのは、一昨年の冬に初めて知った。

 三大がっかりの筆頭ともいえるだろう、時計台のある札幌にいき、札幌でお会いした方に、教えていただいた。



 実は、時計台もいくつもりはなかった。仕事で札幌に訪れたので、せいぜい会場となったホテルと空港周辺でスープカレーでもいただいて帰ろう。そう思っていたのだが、「三大がっかり」と聞いて、逆に行ってみたくなった、というのがそのときの心境だった。



 さらに、天候の都合で、仕事が終わって、先方とわかれてから6時間の時間ができてしまった。

 観光目的ではなかったから、この6時間をどうするか。即席で地下街にあった観光ガイドをみて、どうせならば、と、時計台周辺で徒歩圏の観光スポットをまわることになった。



 さて、個人的な時計台の感想だが、たしかに思っていたよりは小さかった。観光ガイドなどにある時計台の「盛った」写真をイメージしてきたら、たしかにがっかりするだろう。ただ、実は、この時計台が作られた経緯は多少知っていた。だから、写真でみるイメージよりも小さいことは予想していたので、「思っていたより」程度で、がっかりするほど小さいものではなかった、というのが、私の感想。そして、内部の施設見学は、ここは、「思っていた」よりも充実して、興味深いものがあった。もちろん、「思っていたより」小さい施設の中の展示品だから、数は多くない。しかし、一つ一つは、たまたま私のいろいろな関心をくすぐってくれるものだった。



 これはもしかすると、マイナスに盛って、結果的に、満足度を高める作戦ではないか? 

 札幌市民の方に初めて「三大がっかり」という言葉を聞いたときは、自虐ネタなのかと思っていたのだが、あまり期待されて時計台を見られるよりも、期待度を現実よりも落とした方が、満足度が高くなる、という作戦ではないか、と。



 時計台を例にだしたが、この記事であげたかったことは、3つある。

 1つ目は、現実よりも高い価値のように見せかける「盛り」は、実は、単なる嘘つきだと思うことは、前回のとおり。他方で、現実よりもおとしめて見聞きさせる「盛り」(「削り」? うまくいえませんが)ことも、単なる嘘つきではないか、ということ。

 2つ目は、「嘘つき」というのは、故意に狙ってするもの。気づかずに、「盛った」り「削った」りしているのは、嘘つきではなく、事実誤認ということになると思う。この、故意に狙っているのかどうかも、「盛ること」を考えるときには注意しなければならない点ではないかな、ということ。

 そして3つ目は、結局は、受け手との関係性が大きいということ。私は、時計台が立てられた経緯や時期なども基本情報として持ち合わせていた。だから、がっかりしなかった。しかし、美しい観光ガイドの写真などだけをみて、イメージを膨らませてきた方は、たしかにがっかりしただろうと想像できる。だから、「盛った」のか、「盛ってない」のかは、受け手がどういう人なのかにかかってくることになる。



 自分観察というテーマで、自分を観察してみると、私は、自信のなさから、「削る」はしばしばしてしまっていると自覚している。謙遜というのも、場合によれば「削る」の典型。また、人に褒められたとき、「まだまだです」などと応えることも、同じように考えられるかもしれない。



 嘘はいけません。というのが、実は、前提になっているのですが、本質がからっぽなのに、虚勢を張っているのをみて、「盛っているな、嘘はいけないよ」と思うのと同時に、謙遜しすぎて、削り過ぎていることも反省しなければいけないな、と思うのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?