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第3話 ネイルオイル

 指先に痛み。右薬指の腹にすーっと赤い線が走っていた。商品に血がついてしまっては大変。滲む前にエプロンのポケットから絆創膏を取り出す。

 本屋で働くようになって、指の水分が紙に持っていかれるので、常に乾燥に悩まされている。ひどい時は今日みたいに切れてしまうから、絆創膏が欠かせない。

「こればっかりは仕方ないよね」

 仕事帰りのドラックストアで独り言ちる。無香料タイプのハンドクリームと絆創膏をカゴに入れてレジへ向かった。

 途中、ネイルコーナーの前で思わず立ち止まる。

 ポップで甘めのパープル、大人かわいいくすみのネイビー、シロップみたいなクリアピンク。コロンとした小瓶が並ぶ棚には憧れが詰まっていた。イメージしやすいように、色見本のネイルチップが価格プレートにいくつも取り付けられている。

 私にとってネイルはハードルが高い。可愛いものを身につけるのにまだ許可を出せないのに、身体の一部を可愛く染めるなんて……。

 でも、手を見るたびに好きな色があるってどんな気分なんだろう。きっと私が知らない世界だ。

 強烈な憧れに突き動かされ、私は自分の爪にチップを重ねようとした。

 ささくれが棘みたい。まるで恐竜の爪先。

 お前には似合わねぇよ

 深く柔らかなところで根を張ったネガティブがリフレインする。
 隠すようにポケットに手を突っ込む。ささくれが布の繊維に引っかかる。爪に色を塗るとか、それ以前の問題だということを、小さな痛みによって思い知らされる。

「仕方ないよ」

 私には縁がないものだと言い聞かせるように、自嘲の息を吐く。
 帰ろう。忘れよう。そう思った。
 ふと、ネイルコーナーでは見慣れない物が置いてあることに気がつく。

「これって……ペン?」

 クリアタイプのプラスチックでできたそれは、蛍光マーカーによく似ていた。最初は購入特典かと思った。
 一本手に取ると、バーコード部分に「テスター」のシールが貼られている。
 ペンの正体は、ネイルオイルだった。先端の筆で爪を撫でることで美容オイルを塗ることができる仕組み。

 ネイルオイルの存在自体は知っていた。
 大抵は同じような小瓶に入っていて、とっても可愛い。
 可愛いから惹かれる。可愛いから怖い。
 自分なんかが使ってもいいのかって、考えてしまう。

 でも、ペンの形には馴染みがあった。
 今ならいける気がする。
 テスターのキャップを外す。甘くて軽やかな香りが、さっき吐いた劣等感を祓う。数種類あるテスターの中で、偶然にも大好きなジャスミンを引き当てていた。

 左人差し指に塗ってみる。乾燥した爪と甘皮が濡れて光る。説明書きのとおりに反対の手で丁寧に揉み込むと、鮫肌のようにざらついた皮膚がふわんと柔らかくなっていく。

 私の指先でも、「かわいい」を始められる?

 膿んだ傷は何も答えない。でも何か言ったって、ジャスミンが消してくれるから。
 テスターの後ろに並ぶ未開封の一本を手に取る。カゴにも入れず、大事に抱えたままレジへ向かった。

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