「罪の声」を観て思ったこと。
悪の親玉を倒したので世界は平和になりました、なんて御託が通用するはずもないダーティーな世界に私たちは生きている。今の加害者はかつての被害者で、そこには踏みにじられた過去を持つ。そうやって社会からの暴力に踏みにじられた人が奮い立って、その暴力にまた誰かが傷ついて、っていうのが今の社会であり、「罪の声」での世界だ。
ていうか今のご時世、絶対的に被害者の立場に立ち続けられることなんかあり得なくて、そりゃあ被害者でいるのはある意味楽だけど、黄色人種として差別される日本人だって、この国に住む以上外国人労働者が低賃金で作った弁当やら農産物やらを食べて、発展途上国の木を切り倒した紙やらを使って生きているわけで。誰かに頭を踏まれながらも、その足で別の誰かを踏んでいるのが社会の現状、じゃあそれに気づいたときにその足をどけるか更に踏みにじるのか。
何が言いたいのかっていうと、傷つけられたからって傷つけていいわけじゃないってこと。国家権力が犯した罪の濡れ衣を着せられて自分の父親が自殺しても、自分の息子の声を使って社会に報復してはならないということ。残酷だけど、やるせないけど、そういう事なんだと思う。
「人間とは何かをつねに決定する存在だ」って言ったのはフランクルだったけど、持てる能力をどのように使うのか、加害を受けた後にどのように振る舞うのか、人間の価値ってある程度そこに表れるよなあ。だからこそ、自分の人生を無茶苦茶にされかけた俊夫が最後に「僕はあなたのようにはなりません」って言ったのは、この問いに対するベストアンサーだと思う。
被害を受けたことと加害をすることは全くの別問題で、脚本を手掛けた野木亜紀子も「被害者は何も語れないのに、加害者の言い分だけ聴かされても困る」って言ってた。加害者にも事情があるのは百も承知で、でもその事情に振り回されて声を奪われて、人生めちゃくちゃになった人がどれだけいるのかって話。自分の受けた苦痛を武器に「奮い立った」裏で潰されるのはもっと弱い子どもたちだってことを、私たちは忘れちゃいけない。
体育の先生が言ってたんだけど、今は自分の身体をうまく使えない人が多すぎるんだって。社会に余裕がないから会社も成果主義になるし、その競争社会で追い詰められた人は心と身体のバランスを保つ余裕がなくなる。バランスが崩れると人は身体を制御できなくなる。心の不安定さがそのまま暴力となって現れる。じゃあ、その暴力を一番被るのは?家庭内の弱者ー子どもたちだ。
いつだってこの社会の皺寄せは何も悪くない子どもたちに行く。そんなのはおかしい。そんな社会間違ってるって、この映画は叫んでいた。だからこそ、闇に葬り去られた被害者たちの夢を、過去を丹念に紐解いていく。声をかき消されてしまった子どもたちにも、人生があったんだよって。
じゃあ私たちがするべきことってなんだろう。復讐が新たな被害者を生み出すだけだとしたら、私たちが社会に対してできることってあるのかな?私はあると思う。それは、私たちが子どものときに傍にいてほしかった大人になること。受けた暴力に、癒えない傷に寄り添って、一緒に解決策を探ってくれる大人になること。これって合ってるのかな?わからないから、これからも考え続けていく必要があるのだと思う。「罪の声」、良かったです。
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